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その声はわが友…

 
 『山月記』について。

 『山月記』といえば、学校で取り扱われることも多く非常に馴染みのある作品かと思う。李徴が虎になってしまうというあれのことだ。インターネットでもよく「その声は、わが友李徴子ではないか?」がなぜかよく見られる。おそらく『少年の日の思い出』のエーミールと同じような立ち位置なのではないかと思う。

 習った当時も面白いなと思っていたし、印象深かった。その後とある機会に学んだ新しい視点のおかげもあり、『山月記』がいろいろ考えられる作品であることが感じられた。
 特に、李徴の詩については面白い。李徴は自分の詩のことばかり考え、作中でも考えてきた詩を友である袁傪に告げている部分がある。ただ、どれも書かれてはいない。言い方によっては、書かれるに値しなかったということだ。皮肉なことだが、即興で考えた虎になったことを嘆くかのような詩は本文に書かれている。
 また、李徴の家族についても面白い。これも彼の詩のように、書かれていない。書かれていないことは李徴が語らなかったことであり、作者が(おそらく意図的に)省いたものだが、どんな人物か全くわからない。彼らの視点で書かれた物語があったら非常に面白いのではないか、李徴の妻は彼に対してどのような思いを抱いていたのだろう、などと思う。

 そんな中、『虎と月』という作品に出会った。出版された年がもう10年前であるということだが、逆に言えば10年しか経っていない。『山月記』は1942年頃に出版されているが、そこから約70年で二次創作作品が出ているのは、この作品が長く愛されていて魅力があるということの証明だろう。おそらくヒトトギスが知らないだけで、多くの関連作品はあるだろうが、偶然自分のニーズと合うものだったこともあり、読んでみることにした。


 『虎と月』は李徴の息子視点で書かれた、『山月記』のアフターストーリーである。語られなかった李徴の妻、息子がどういった人間かが一つの形になっていて、とても面白い。登場する人物も増え、息子の行動から李徴と似ているような部分が見えるのも魅力的。
 
 以下、一部ネタバレを含む。
 
 印象的だったのは、李徴が虎になったことを解き明かそうとするストーリーとその過程と結果が原作に与えた影響である。
 過程において、主人公である李徴の息子は父親が虎になったことについて、いろいろな話を聞く。ただ、どれも途中の話であり、最終的に李徴がどうなってしまったのかについては触れられない。(と言うか誰も知らない。)もしかしたら袁傪が出会ったときはまだ人だったかもしれないし、今も別に虎になっていないかもしれない。それは『山月記』には描写されていない。(草むらの中で声を聞いただけであり、姿は見ていない。)『山月記』も『虎と月』も最後に虎が出てくるが、それが李徴であるとは言っていない。
 結果として主人公は父親がどうなったのかという真実は分からずに旅を終えることになり、結果として『山月記』事態に与える影響はほぼない。なぜ李徴が虎になったかを様々な観点から考え、一つの答えが出そうだったにも関わらず、肝心な部分は読者の想像で補うことしかできない。しかも所々時系列を合わせてもどのタイミングで虎の姿をしていたのか人の姿をしているのかが分からなくなる。(ヒトトギスの読解力の低さだけが原因ではないはず。)
 

 結局『虎と月』を読んで面白かったな、という話に落ち着く。語られることのない李徴の家族の視点、しかも息子の視点であることが作品の良さになっていると思う。この作品では妻は李徴という夫に対していい思いはしていないし、息子に対してもあまりよく思っていない。彼女は幸せになれないのか?もういっそ袁傪と結婚しちまえよ…とかも思ったことがある。(暴論)
 
 そんな暴論はおいておくとしても、登場する人物が少なく、詳細は李徴についてしか書かれていないというのにもかかわらず、ここまで考える余地がある。『山月記』はこういった部分が魅力なのだろう。

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