虹住人の抜け殻 (2)


あの時、僕は手を放した。一瞬の出来事だった。

妹は帰らぬ人となっていた。その事実を自分が認識するまで時間がかかっていた。いやもしかしたら、その事実自体を認識したくなかったのかもしれない。僕は両親に責められなかった。僕自身としては責めてほしかった。いくら子供だとしても、彼女のお兄ちゃんである事実は揺るがない。でも、今そんなことは言えない。僕には彼女のお兄ちゃんである資格なんてないのだから。


僕たちは中庭に向かった。そこには様々な種類の花が植えてあった。堅牢な外観からは想像できない風景がそこには広がっていた。ベンチに色を塗っている白髪の男性が目に留まった。エミコは小走りで彼の方へ向かい、何やら話をし始めた。彼女が戻ってくると僕たちは唯一ペンキが渇いていた白色のベンチに座った。先ほどの雰囲気とは一転して、ポップな話題が続いた。どうやらエミコはこの中庭にある花々の管理を任されているらしい。そして、おじいちゃんが花の写真を撮ることが好きだったことや、それに影響されて自分も写真を始めたことを話してくれた。
「まさおさんのお手伝いでもする?」
まさおさんとは先ほどの白髪男性のことだ。
「ペンキ塗りますか。」
僕たちはまさおさんから様々な種類のペンキとハケを貸してもらい、作ったばかりと思われるベンチに色を塗り始めた。塗り始めたときに、ハケを動かした反動でエミコの白ワンピースにブルーが着色した。それに気づいたエミコは僕の顔を見た。怒られるかと思いきや、笑みを浮かべている。すると、彼女はイエローを十二分に含んだハケを思いっきり空気中に振りかざした。その反動で僕の白リネンシャツにまばらなイエローが着色した。そこから僕たちはペンキをお互いにかけあった。ペンキは様々な色があったのでお互いの服がカラフルに着色していく。  


「あおっ!」と君が叫ぶ。
僕は「きいろっ!」と返す。
君は「バナナ?」と叫び返して僕に黄色を塗り返す。
僕は「ゴリラ!」と言ってドラミングをし、
生き生きと躍動する野生の姿を演じる。
「地響きしていないからまだまだだね。」
と君は不満そうに言いながら僕にりんごを投げた。
僕は茜色の涙を流しながら君を追いかけた。

どんな色が混じって、どんな感情が混じって、共に過ごす時間が僕らの人生にどのように混じっていたかをうまく言い表すことは難しい。そしてそれを僕の拙い語彙力で表現したくない。色たちが僕ら二人の時間に彩りを与え、幾重にも色が重なっていく。その過程で僕たちは虹住人として存在し始めていた。どこまでも続く虹の道を彼女と二人でどこまででも歩いて行けるように感じられた。この感覚が何だか懐かしかった。


背後からもう一人虹住人が現れ、静かな声でこう言った。「いい加減にしろよ。」僕たちは一瞬にして夢の夢から覚めた。
「まさおさん、すみません。」
「楽しそうで結構何だがな。俺にもかかっているからよ。」
まさおさんの白髪が見事に色づいている姿は、以前どこかのギャラリーで見た、ある芸術家の作品とよく似ていた。 僕の白リネンシャツも、エミコの白ワンピースも白の面積が少なくなっていた。色の重なりの隙間から顔を出すわずかな白はどんな色たちよりも目立っていた。


私は今、初めてこの世界でカメラを手にしている。決して避けていたわけではない。だがこの状況下で、写真を撮ることに向き合うことができなかったのは事実だ。それ以上に、この世界で写真をいくら撮ろうが、結局のところ記憶にも形にも残らない。だから、その行為は無駄だと感じていた。しかし、私の生活にある時からずっと根付いてきた写真というものを切り離すことはやはりできないと感じていた。私はニコンのF3にネガフィルムを充填し、中庭へと向かった。

あの時、僕は手を放した。一瞬の出来事だった。

目を覚ました。夢の中で眠りから覚めてもそこは夢なのであるからとても違和感がある。この違和感も徐々に減っていくのだろうか。彼女の命日以降、眠りにつく度に不定期にこだまするあの声は決して消えることはなかった。しかし、時間が経つにつれ声色の正確性も損なわれているような気がした。この声はいつしか無機質な機械音のようなものになっていくのだろうか。寂しさが同居するこの事実に僕は虚しさを覚えたのであった。あのたった一回の過失は一生記憶から消えることはない。だが、彼女の声や顔はいつか記憶の遥か彼方に旅立っていくことだろう。

朝食は食堂で7時からとることができる、エミコが昨日そう言っていた。机の上にある置き時計は6時57分を示していたので、すぐに食堂へと向かった。
「俺らも脇役が多くてなってきたよな。年齢的にもそれがベストなのかもしれないが。」
「確かに主役を張るようなインパクトはもうないよな」
「最後にメインキャストだったのはいつだっただろうか?」
「でも俺らの先輩方でもメインを張ってる人はいるからまだまだこれからかもしれないな。」
食堂での会話を聞くとこの世界の実情を知ることができる。見渡して気づいたことなのだが、僕のような若者は見当たらない。20代の人はいないのではなかろうか。若くても30代、そして最も多いのが4、50代のようだ。今日の朝食を配膳口で受け取り、席に着くやいなや、隣にいた前髪のクセが印象的な男が話しかけてきた。
「君が新入りかい?」
 「僕は見学中で。」
「見学期間を設けるように提案したらしいね。どうせ入らないだろう?君みたいな若者は入ったとしてもすぐやめる。事実、この組織やこの世界の同業者はみな現実で何かあった人で構成されている。もちろん、そのことは皆口に出さないし、お互いにどんなことが現実であったかは知らない。だから、君みたいな恵まれた若者は入ってもそもそも続かない。この世界でやることは地味なことばかりだし、何か理由がないと継続できないんだよ。見学期間なんて設けて、ちょっと異世界の様子でも見てみるかっていう程度のものだろ?」
「確かにそうかもしれないですね。それよりあの女性も現実で何かあったのですか?」
「ああ、エミコちゃん?詳しいことは知らないけど、岩鬼さんのお気に入りだからスカウトしたんじゃないかな?一部ではあの二人はそういう仲だって言う人もいる。」
前髪のクセだけでなく、話す際に口を尖がらせて得意げに話す姿が何だか鼻についた。 食べ終わるころエミコがやってきた。
「岩鬼さんが連れてきてってさ。行こうか。」

外に向かう前に中庭を経由した。そこには、昨日僕たちが着ていた白リネンシャツや白ワンピースが干されていた。鮮やかな花々も見事に咲き誇っていたのだが、僕は虹住人の抜け殻に釘付けだった。それらは僕の視線を独占するほど美しく尊いものに感じられた。僕たちとは反対の方から、岩鬼がやってきた。
「ちゃんと飯食ったか?」
「食べましたよ。」
「今日はヘビーだからな。ちゃんと食べているなら良かったよ。」
僕たちは車に乗りこみ、今日の目的地へと向かった。
「岩鬼さんは現実でどんなことをされていたんですか?」
「お前、食堂で他のメンバーから言われなかったか。この世界で現実のことを聞くのはご法度なんだよ。」
「聞きましたよ。でも、気になって。」
「俺はな、医者だ。医者をやっていた。意外だろ。」
「適当な岩鬼さんが医者か。」
「おい、口には気をつけろよな」
「どうして医者になったんですか?」
「どうしてか気になるか?」
「気になります。」
沈黙のまま外の風景ばかりを見ていたエミコが口を開いた。
「ここですよ、岩鬼さん。停めて下さい。」
岩鬼はエミコの言った通り、車を停めた。そして、岩鬼は鍵を抜いた後、エミコに向かってこう言った。
「エミコ。こいつに仕事のルールを教えておくから先に始めててくれるか?」
「わかりました。」
エミコはトランクから重そうな黒くて大きなショルダーバッグを持って仕事へ向かった。
「さっきの続きだけどな、俺の親が医者だったのよ。まあ最初は興味なかったんだが、医者の家系だってこともあって、結果的には俺も医者になった。しいて言うならば親父の死がきっかけってやつかな。高校三年の時に亡くなってな、それで興味を持ったってわけだよ。これで満足かな?」
「それじゃあどうしてこの世界に?」
「質問攻めだな。まあいい。教えてやるよ。俺は外科医だった。来る日も来る日も手術をしていた。ある時、一人の男性を手術することになってな。結果から言えば、彼は死んでしまった。それがきっかけかもな。」
「医療ミスってやつですか?」
「世間的に言えばその言い方が正しいかもな。注意を怠ったのが原因だ。彼が死んだ後、家族側から訴えられて、俺は医者という職業から距離をとった。ちょうど42歳の夏のことだ。」
岩城は煙草とライターを取り出すと辛辣な表情で吸い始めた。そして続けた。
「何人もの命を救ったのは事実だ。患者の家族からも何度も感謝された。でもな、外科医は一つのミスで信頼も患者の命も失うリスクの高い仕事だ。まあ、適当な人間が外科医をやっていたこと自体が不思議だったんだけどよ。」
この後も岩鬼は外科医時代の苦労話などを話してくれた。

少し経ったころエミコが戻ってきた。
「岩鬼さん、何やってるんですか。もう終わっちゃいましたよ。」
「エミコごめんよ。こいつ物覚えが悪くてな、レクチャーに時間がかかったよ。」
岩鬼が僕の目を見て訴えかける。僕は岩鬼のことを理解しエミコにこう言った。
「すみません。僕が質問ばかりしてしまったので時間かかってしまいました。」
「君は今見学しているんだよね?やる気あるの?」
「ごめんなさい。」
本部から連絡があり、次の現場は延期になった。帰る車中、誰もしゃべることはなかった。沈黙のまま夕暮れの森の中を走る。僕はその時、同じ道を何度も回っているような感覚に苛まれた。

今回はポラロイドカメラを使用する。このカメラは現実でも使用していたなじみ深いカメラだ。松陰神社前にある古本屋でロシアの映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーの写真集を手に入れた。それらはすべてポラロイドで撮られていた。それに影響を受けた私は新宿や中野、秋葉原にある中古カメラ屋を回った。しかし、お目当てのものが見つからず途方に暮れていた。最後に家の近くにある学芸大学のカメラ屋でようやく見つけた。家に帰るとすぐに私の花コレクションの撮影会が始まった。その後リリースすることになる、三枚目の写真集はポラロイドで撮った花たちがページを飾った。この写真集の出版を記念して中目黒のギャラリーで写真展が開かれることになっていた。私は当日まで写真のディスプレイや、内装をどうするかで頭を悩ませていた。在廊初日、私は一人の男性と出会った。彼は私の展示を見て泣いていた。大丈夫かと話しかけると彼は言った。
「何だかすみません。妹がこの花を好きだったもので。」
そう言うとすくに走りだして出て行ってしまったのである。

今回の演出は鈴木夫婦思い出の場所に久々に赴き、記念写真を撮る設定にした。
「あら、あなたがカメラマンのエミコさん?」
「はい、この度はよろしくお願いします。」
「私はね、あなたの写真集を見てぜひお願いしたいと思ったのよ。」
「えっ。」
「あなた、『花の名』という写真集を出しているでしょ? 私あれがお気に入りなの。」
ちょっと待って。おかしい。私は自らで写真を撮る設定にしたはずだ。なぜ奥さんは私の写真集について知っているのだろうか?もしかしたら偶然に私の写真集を持っている人がお客様に選ばれたに過ぎないのだろうか?偶然の一致と考えるには少し恐ろしい。
「エミコさん、この辺りで撮るのはどうかしら?」
「そうですね。ここにしましょう。」
シャッターを切っている最中、岩鬼たちのことが頭に浮かんだが、そのこともすぐに消え去るくらい集中して撮影した。この感覚。やはり辞めることはできないと思った。
「あなたに頼んでよかったわ。」
奥さんのその言葉を聞いた時、この世界でも私の存在意義があるような気がした。誰かから必要とされている。肯定されているという感じが心地良かった。

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