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le 19 août - Paris, 1994


1994年8月19日

 クラスが終わると、サン・ラザールに寄って現金を引き出し、途中のカフェでエクスプレスエスプレッソを飲んだ。そして、「TUXEDO」に寄って例の鹿革のコートを買ってからアパルトマンに帰った。

 部屋であらためて羽織ってみる。自然と顔がゆるむのが自分でも判る。鏡の前でよく見てみるとボタンがひとつぐらついていたので、ナツメさんに針と糸を借りてボタンを付け直した。何だかより一層、愛着が増した。そうこうしているうちに何だか眠くなってきたので少し昼寝をした(こっちに来てからなんだか昼寝ばかりしている気がする)。

 17時半に目を覚ますと、ブルノーから電話があった、とゼンが教えてくれた。20時にサン・ミッシェルのフォンテーヌ前ということだった。ジャズのライブを聴きに行くための待ち合わせである。

 「ランデ・ヴー」でヨシさん達とビールを飲んでからサン・ミッシェルに着くと、もうほとんどが集まっていた。珍しいこともあるものだ。今日は15人くらいだろうか。知らない顔も混じっていたけれど、そんなことはいちいち気にしないようになった。

 とりあえず、先日のようにノートル・ダムの真下、セーヌ河岸でしばらく飲むことになった。安ワインを飲み、バーボンを飲み、煙草を吸い、時間をつぶす。
 22時を回った頃、ジャズのライブは何時に始まるのか、とブルノーに訊くと、もう始まっている、と答えた。ちょっと待て、じゃあなんで行かないんだよ、行こうよ。「On y va! On y va!行こうよ、行こうよ」と、半ば強引に皆を急き立てる(いつの間にかに8人に減っていた)。僕は今夜のジャズ・ライブを結構楽しみにしていたのだ。

 目的のクラブはRue de Rivoliリヴォリ通りにあると言うので、とりあえずリヴォリ通りに出る。そしてブルノーに「どっち?」と訊くと、彼は分からないと言う。Pourquoi?なんで?
 どこに行くつもりだったんだよ、と言うと彼はウルスラ(クラスメイト)から受け取ったという地図を見せてくれた。その地図はこのようになっていた。

ウルスラが書いた地図(再現)

 なんというか、こんなものは普通「地図」とは呼ばない。ちなみに「リヴォリ通り」というのは、パリでも屈指の大通りである。そんなところでまともな情報もなしに一軒のクラブを探すなんて、砂浜で落としたコインを探すようなものだ。
 試しに通りすがりのカップルに訊いてみると、フラッと道の向こうを指さして「あっちに2kmだ」と教えてくれた。しかし、こう言っては何だけれどはっきり言って信用ならないし(後で調べてみるとやっぱり嘘だった)、そんな情報を手がかりに2kmも歩く気にはなれなかったので、ジャズはあきらめて近くのマクドナルドでビールを飲んだ(パリのマクドナルドではビールを売っているのだ)。やれやれである。


le 20 août

編集後記

冒頭の鹿革のコートは帰国してからもしばらく着ていました。着ると結構ずっしりと重みを感じるコートで気に入っていましたが、やはり女性ものということでだんだん袖を通さなくなり、たしか数年ほど経ってから友人(女性)に譲ったように記憶しています。

掲載している画像はウルスラが書いたメモを僕が再現したもので、1994年に書いた実際の日記のページを撮影したものです。日本から持っていったレポートパッドは授業が始まるとすぐに使い切ってしまい、現地で購入したこのノートを授業と日記で兼用していました。撮影のために久しぶりに引っ張り出してきたわけですが、読み返してみるととても懐かしいですね。

1998年の文章と比較してみると、手書きの原文(1994年)は苛立ちが前面に出過ぎていたせいか、表現がわりと穏やかに変更されています。原文だとウルスラのメモについて「字はもちろんもっと汚かった」と真っ直ぐに罵っています(苦笑)

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