スクリーンショット_2018-05-30_20

「気にすんなよ」は、無意味である。

「気にしちゃってしんどい」っていう悩みに対して「気にすんなよ」という助言がほんとに意味ないなーと、ずっと思っていた。

「咳が止まらなくてしんどい」っていう人に対して「咳すんなよ」と言うようなもんだ。

いや、意識的に制御できるんだったら最初からしてるわ、という話である。

「気にすんなよ」という返しが成立するのは、Bさんに対してすごいひどいことしちゃったAさんがBさんにガチで謝ったときに、BさんがAさんに「気にすんなよ」と言うときだけだ。と思う。

この「気にすんなよ」というフレーズが使いやすすぎるたせいで、「気にしちゃってしんどい」という悩みに対する反射的返しとして転用されてるのはなんつーか、残念すぎる。それ、そこで使う用に開発された言葉じゃない。

もちろん、「気にしちゃってしんどい」というのに対して言う「気にすんなよ」が機能して悩んでた人の気が楽になるときもあるんだろう。たとえば「あることを積極的に気にしてるんだけど、果たしてそれを気にする必要があるのか冷静に判断してほしい」といったニュアンスの問いに対しては「気にしなくていい」という返しが機能すると思う。

あとは、落ち込んでた人が相談した相手が底抜けに明るく「気にすんなよっ!」と言うときだ。しかしこのとき機能しているのは「気にすんなよ」という言葉の意味よりも、相談相手の明るさだったり、笑顔だったり、そのあとの「そんなことよりさぁ」からはじまるなんか楽しいことだったりするんじゃないか。


「そんなことよりさぁ」は「うわこいつ真剣な相談を流しやがった」とドン引きされる可能性がある暴力的な言葉ではある。しかしドラマとか少女マンガでよく使われる手法だ。「そんなことよりさぁ」って言ってバイク乗っけたり、バスケしたり、お笑いのDVD見たり、海で水かけあったり(全体的に90年代っぽい例えですんません)、そうこうしてるうちに悩んでた人は思わず笑いだして「あんたとこうしてたらどうでもよくなっちゃった」とか言って、あとは恋が始まったり恋が進んだり夢に踏み出したり、だいたい月9だと1話の終わりか8話の終了直前にこういうシーンがあって、主題歌とモノローグが入って次回予告になだれこんで、次の回の頭ではそのこと思い出しながらなんかしら気持ちが変わってる的な描写がある…(90年代限定かもしれないが)定番である。

「気にすんなよ」単独では助言として機能しない。

つづく「それよりさぁ」の先が大事なのだ。また乱暴に仮定してみます。

「気にしちゃう」は抽象的なマインドだ。対して「それよりさぁ」の先は具体的な体験とか行動である。


マインドが行動を生むんじゃなくて、行動がマインドを更新する。

書きたいことがあるからnoteを書くんじゃなくて、noteを書き出すと書きたいことが浮かんでくるのと同じですね。

映画の主人公も同じで、なんかしらのネガティブマインドを持ってた主人公が、やむにやまれず行動することになり、行動を繰り返して冒険するうちに、マインドが変化してちょっとポジティブな感じになる。これが基本。のはずだ。
抽象的な思考を繰り返してマインドをポジ変換できることも実生活ではたまにあるが、映画でそこにカメラを向けたところで何も映らない。これが成立するのは小説と漫画だけだ。小説や漫画でうまく感情移入して思考を憑依させることができれば、まぁなんも行動しなくてもマインドが更新されることはあるかもしれないけど、映画の話にしたいので無視します。

映画やお話にうまく感情移入できればそれは行動の疑似体験になるから、「そんなことよりさぁ」のあとにはバスケやバイクじゃなくてなんか、しこたま元気出る映画をみせる、というのも有効かもしれない。

映画づくりにこじつけると、「おもしろいは正義」ということだ。

狭い話として、映画が「気にしちゃってしんどい」人の救いになるチャンスがあったとして、つまらん映画は論外だ。冒頭つまらなければ、その人はその「気にしちゃってしんどい」ことを忘れられず、映画にも入り込めないだろう。

逆にたとえば「そんなことよりさぁ」と言われて連れて行かれた映画が超絶におもしろければ、悩んでた人はだんだんその実生活で「気にしてたこと」を忘れて、没頭する。主人公に感情移入して、一緒に冒険した気になって、自分もなんか乗り越えて変われたような気になって、ぐっすり眠れる。

いろんな映画があっていい。

しかし映画は観てくれるまでのハードルが高いぶん、いちど席に座らせたらけっこう甘い。基本的には集中して観てくれることを前提としてるからだ。自分は冒頭かったるい映画が苦手で、トップカットが山とかの実景×セミの声が6秒続いたり、中途半端な距離からこっちに向かってくる軽トラをじっとり待ってパンして小さくなるまで追っかけるような始まりだともう離脱しそうになる。好みの話をしてます。なんなら史上最もワクワクしたオープニングは『ザ・ロック』と『アルマゲドン』なんで(ベイさん神がかってたよなぁ。で、その頃のベイさんといま同い年な僕…)、お前が映画語るなと言われそうですが無視します。
ちゃんと座って観てくれる前提の観客にちょっと甘えてないか?かったるくないか?という映画へのアンチとして自分の映画は猛烈なテンポにしたら先輩からは「観客が考える間がない」と言われてけっこうハッとしたけれども。確かにじっと席に座って観ることで、自らが考える間は映画には必要だ。むしろ映画の、"思考の媒介"という機能に気づいてなかった30年あまり。

それでもやっぱり、「気にしちゃってしんどい」って人がふと見始めたら30秒でその悩みを思わず忘れちゃうような映画は、最強だと思うし、そういうのつくっていきたいといまこれ書いてて強く思いました。

「一定時間思考を支配できる力」を映画に宿らせたい。宿らせなきゃいけない。そういう映画にいままで心を揺さぶられてきたから。

話を戻すと、「気にしちゃってしんどい」という人に対する返しとして、「気にすんなよ」は単独で機能しないけど、「そんなことよりさぁ」と言って、そういう"一定時間思考を支配できるなにか"を提供できれば、有効なんではないか。
スポーツやってすっきりするとか、バイク乗っけたりドライブ行ったりってのは、身体経由で認知とか判断の必要を脳に送り込んで、強制的に脳のメモリを解放させるために無意識にやってるのかもしれない。こういうことだ。

自分は性格的に危険運転者になると教習所にお墨付きをもらったので一切運転はしないけど、ドライブが好きな人はなんでドライブが好きなんだろうと考えたときに出た仮説が近い。そのときに自分が出した仮説は

「ドライブは①その過程で細かな問題解決と判断(待つとか曲がるとか)を繰り返しながら、②とにかく進行していく、③もしくはときに明確な目的地にたどり着く

という、なんか状況が停滞して悩んでるときにその成功や解決、目標達成までの感じを置き換えて体験できるからなんだろうなきっと、というものだ。

それで言うとスポーツもそうだし、ゲームもそうだし、おもしろい映画を観ることも同じだ。
「そんなことより」と思える、目の前の小さな課題や関心ごとを強制的に脳に放り込んで、脳内を支配していた解決できないモヤモヤを追い出すことで、エアダスターかけたみたいにある程度脳がクリアになる。

やっぱりね、考えるだけではなにも進まないわけですよ。最近も、やる気なんてのは存在しないとか言われてましたけど、近いですね。脳も内蔵で身体の一部なんだから、健康な美味いもん食って、よく寝て、身体の方からハックしないとどうしようもないって話です。そういやこないだジャンプ展行ったときに観た漫画の生原稿も、ベタの塗りムラとかそういう身体性に震えました。映画も感情移入したうえで役者の身体性を感じ取るから脳がクリアにできるのかも。いや、むしろ映画の場合は劇場で椅子に座ってみたいな身体性の方がカギかもしれない。映画はスクリーンで観る反射光だから、透過光のディスプレイとは脳が反応するところが違うとか、そういうのもあるし。

鏡に向かって「お前は誰だ」と言い続けると自我がゲシュタルト崩壊するらしい、とかもそうだけど、脳そのものも「気にすんなよ」という言葉以上に、アテにならない。気にしちゃってしんどいときは、脳のメモリを解放するために身体性をともなうなにかを実際にやるか、それを疑似体験できるいい映画を観るべし。B’zとかのライブに行ってはしゃぎ倒すのもよし。身体からハックせよ。

気にすんなよ。

それよりさぁ、おもしろい映画あるんだけど、観に行かない?

この記事が参加している募集

また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。