見出し画像

【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 後編 14

 静かな時間が、二人に訪れる。

「弟成って、いま、好きな人とかおるん?」

 稲女は、静かな時間を押し破るように訊いた。

 弟成は答えない。

 彼女は、そっと彼の顔を覗き込んだ。

 彼は、眉を寄せて空を見ている。

 どうやら、考えているようだ………………実際、彼は考えていた。

 ―― 好きな人か………………

    そう言えば、随分前にそんな話を黒万呂としたような?

    あれは確か、初恋の話だったが。

    と言うと、俺の好きな人はお屋敷の子になるのだが………………

    いまどこにいるかも分からない。

    お屋敷の子に似ているといったら、八重女(やえめ)がそうだな。

    そう言えば、八重女は如何なのだろう?

 弟成は、彼女を思い出していた。

 松の下の佇む彼女を………………

 三成に花を手向ける彼女を………………

 水場の露な姿の彼女を………………

 汗に滲んだ彼女の笑顔を………………

 なるほど、好きという感情が如何いったものかは分からないが、彼女の仕草を鮮明に覚えているということは、いまのところ彼女のことが好きなのかもしれない。

 ―― でも、それって本当に好きなのか?

「八重女……?」

 弟成は、つい口にしてしまった。

 女は地獄耳である ―― 稲女は、その言葉を聞き逃さなかった。

「八重女? 八重女のことが好きなん?」

 稲女は、弟成の目を真っ直ぐ見つめた。

 その目は、明らかに嫉妬の目だ。

 しかし、弟成には分からない。

 その目が、ひどく恐ろしいということ以外は。

「えっ? そ、そうかな?」

 彼のこの不用意な言葉が、目の前にいる少女の目を悲しみの色に染めてしまった。

稲女は、顔を両手で覆うと弟成の前を駆け出して行った。

「えっ? ちょ、ちょっと、稲女……」

 少年は、なぜ少女が泣き出したのか分からなかった。

 再び、彼の前に静かな時間が訪れる。

 稲女の涙が弟成への好意の印だと知ったのは、黒万呂に事の次第を語り、彼から一言、

「そりゃ、お前のことが好きやからやねん」

と、言われたからであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?