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詠斗はまだ、目覚めない。

「えいちゃーん?」

一階から祖母が僕を呼ぶ。

「もう時間よー?」

「わかってる!今行くって!」

僕は髪の毛をいじりながら声を張り上げた。

「...よし」

鏡に映る自分を見て小さくそう呟くと階段を駆け下りる。

「ほら、お母さんに挨拶は?」

足早に通り過ぎようとした和室に立ち寄ると、写真の中で穏やかに微笑む母にパンっと勢いよく手を揃える。
母が亡くなったのは僕が幼稚園の頃。亡くなる数年前から入院していてほとんど家にはいなかったため、正直母の記憶はあまりない。

僕を追って祖母が玄関に来る。

「忘れ物ない?」

「ばあちゃん、いつも言ってるけどさ〜忘れ物は忘れてるから忘れ物なんだよ。思い出したら...」

「はいはい、いいから早く行きなさいっ」

追い立てられるように外に出ると、僕は元気よく言った。

「行ってきまーす!」

一度振り返り、玄関の外まで出てきた祖母におどけて手を振ると道を駆けていく。
あの角を曲がるところまで。祖母から見えなくなるまで。
キラキラと飛ぶように、何もかもが楽しいと跳ねるように。
あの頃の詠斗のように。


僕が詠斗になってから約1年が経った。
最初は複雑な顔で見ていた周りの人もいつの間にか慣れ、今ではこの町でも家の中でも僕は詠斗になっている。
まるで、だんだんと僕という存在が消えていくかのように。


去年の大晦日、僕たちは近所の仲間と神社に行った。
カウントダウンをしようと境内に集まったのは向かいの家の健太とその弟の亮平。年はバラバラだったけど、町が小さかったこともあり僕ら4人は昔からよくつるんでいた。
詠斗と僕は年子だ。僕の方が早く生まれたはずなのに、詠斗の方が身長が高くてどっちが弟かわからないとよく2人にからかわれた。

詠斗が僕よりも年上に見えることが多かったのはその性格もあったかもしれない。
活発で時々無茶もするけどなぜか憎めなくて、天真爛漫な詠斗。周りにはいつも人がいて、みんなを引っ張るような不思議な魅力というか力強いパワーのようなものが詠斗にはあった。
運動も得意じゃないし、かといって勉強ができるわけでもない冴えない僕にとって、詠斗は自慢の弟だった。
自分との違いに少し妬ましく思う時もあったが、詠斗は僕を慕っていたし詠斗のおかげで僕も輪の中に入れてもらえているような気もして、だから僕はその恩恵を受けるために自分の中の黒い部分をそっと隠し、やんちゃな弟を見守る兄に徹していた。


いつもと違う賑やかな明かりが灯る神社ではしゃぎまわる僕たち。
繰り返される何気ない日々と全く同じ1日なのに、その年の最後の日というだけでなぜか非日常感があって浮き足立つ。
それはきっとどの人も同じだったのだろう。
だからあんなことが起こったのかもしれない。

それは一瞬だった。
神社の帰り道、詠斗は信号を無視して横断歩道に突っ込んできた車に撥ねられた。幸い一命は取り留めたものの、あんなに元気だった詠斗は変わり果ててしまった。
体には色々なチューブが繋がっていて、時が止まったかのように一言もしゃべらず、ただただベッドに横たわっている。今もずっと。
あの日から、詠斗は目覚めない。


父の失意もさることながら、一番ショックを受けたのは祖母だった。
母を亡くした僕らにとって祖母は母親同然の存在だった。母が入院してから僕たちの世話や家事を全て担っていた祖母。幼い僕たちはそれが当たり前のことかのように、物心つく前から祖母と暮らしてきた。

よく文句を言い合いながらもなんだかんだ甘え上手でおばあちゃん子だった詠斗が事故にあってから、祖母はみるみる弱っていった。きっともうだいぶ前から無理をして母の代わりをやってくれていたんだと思う。
すっかり元気がなくなってしまった祖母は、だんだんと日中も横になっていることが多くなり、そのうち何を話しかけても返事をせず、ぼんやりと過ごす日が増えていった。
その頃から祖母の目にはもう、僕は映らなくなっていた。
それでも、詠斗は目覚めない。


家事ができなくなった祖母の代わりに僕は家のことをして、時々病院に行っては何も話さない詠斗の枕元でただただ詠斗を見つめた。
どうして詠斗だったんだろう。
僕が代わりにこうなればよかったのに。そんなことも何度か思った。
詠斗がいなければ、僕は何もできない。
いつものように仲間と遊ぶことも、祖母を笑顔にすることも、僕にはできなかった。


僕が詠斗になり始めたのはその数ヶ月後のことだ。
きっかけは父の一言だった。

「夏休みの間、叔父さんのところに行ってみないか?」

「でも、父さんは大丈夫なの?家のこととか...」

「大丈夫。なんとかするから。お前もちょっと叔父さんの所でゆっくりした方が気持ちも落ち着くんじゃないか?おばあちゃんは父さんが面倒見るから」

正直、詠斗がいなくなって色んなバランスが崩れてしまったこの家で、毎日仕事をしながら病院にも通い、あんな状態になってしまった祖母と、名前も呼ばれなくなった僕の3人であの家にいるのが父も苦しかったのかもしれない。
詠斗がこの家からいなくなってからひたすら時間を持て余すように過ごしていた僕も、この家から、祖母から、そしてこの現実からどこかへ逃げ出してしまいたかった。
だから僕は、しばらく家を離れて叔父の家に行くことにした。

しかし、僕は叔父の家に行ってもこの呪縛のような虚しさから逃れることはできなかった。
やることもなく、日中は叔父も叔母も仕事でいない家の中で一人。
気がつくと詠斗のことばかり考えていた。
どうしたら、いつになったら...。
それとももう、これからずっとこのままなのだろうか。
父から詠斗のことで連絡が来るんじゃないかと思って、携帯は片時も話さなかった。でも結局そんな連絡は来ることもなく、夏休みはただただ過ぎ去っていった。
詠斗はまだ、目覚めない。


夏休みが終わり家に戻る前、僕は伸びっぱなしだった髪を切った。
もしかするとその時、もう僕は心のどこかでこうなることを予想していたのかもしれない。

家に帰ると、相変わらず祖母はぼうっとした顔でどこでもないところを眺めている。僕はそっと声をかけた。

「おばあちゃん…ただいま...」

祖母がゆっくりとこちらを向いて呟く。

「...えいちゃん?えいちゃんなの?」


僕は一度押し黙ったあと、さっきよりも大きな声で答えた。

「ばあちゃん、俺がいなくて静かだったでしょ?ただいま!」

「...えいちゃんなのね?」

祖母が目を見開き、僕の両腕を掴んだ。

「いててて!なんだよ!ねぇばあちゃん、腹減った。なんかないの?」

僕はほんのちょっと前まで当たり前だった、あの頃の光景を思い出しながら言った。
祖母の目に、光が灯ったような気がした。


その日家に帰ってきた父はもちろん驚いた。
今まで夜になっても電気も点けていなかった祖母が、昔のように台所に立ち料理を作っていることに。
そして、僕が「えいちゃん」と呼ばれていることに。

「おふくろ...。詠斗は...」

「なに?父ちゃん」

父の声が祖母の耳に入らないように、僕は食い気味に答えた。
父がおろおろとした目で僕を見る。僕は強い眼差しでじっと父を見つめた。

もう、僕たちは疲れていた。
この終わらない苦しみと、どうしようもない悲しみからきっと全員が逃げ出してしまいたかった。

ねぇ、父さん。そうしよう。その方が、きっとみんな幸せに生きていける。
僕は何も言わなかった。
父も、何も言わずに僕を見つめ続けた。


それから僕は、家の中でも近所でも詠斗として振る舞うことを始めた。
健太も亮平も、そして町の人も最初は「え?」と怪訝そうな、または不憫そうな視線を送っていたけれど、元気を取り戻した祖母や僕たち家族の状態を察してか、僕らに何かを言う人はいなかった。
それどころか、無理やり始めた僕の「詠斗」に合わせてくれるように、徐々に町の人は僕のことを詠斗として接するようになり、だんだんとそれが馴染んでいった。


詠斗になってから僕は自ずと詠斗に寄せて自分を作るようになった。
最初は詠斗だったらどう話すだろう、どう思うだろうと考えていたけど、あいつのことなら僕が誰よりも知っている。
しばらくするとそれが自然とできるようになって、昔の自分よりも明るい口調で人と話すようになったり、詠斗のように健太や亮平たちを誘って町で遊ぶようになった。
これは、僕が変わったのだろうか。
それとも僕はただ詠斗を演じているだけなのだろうか。
僕は一体、誰なんだろう。


夏が過ぎ、僕は顔つきも体もどんどん変わっていった。
使ったことのなかったワックスで詠斗のように短髪を整えるのも慣れてきた。家にいることも少なくなり、日が暮れるまで外に出かけて夜になるとどたどたと足を鳴らして帰った。
祖母は困ったような嬉しいような顔をして「また遅くまで遊んで来て...どこ行ってたの?」と言いながら夕食を食卓へ運ぶ。
僕はそれをがつがつと頬張りながら今日あったことを祖母に話した。
自由奔放でいつも元気。明るく振る舞っていればみんなから愛される。
いつからか、僕は詠斗としての生活が心地よくなっていた。
詠斗はまだ、目覚めない。


健太たちと遊ばない日は、僕はいつも病院にいた。
静かな病室で、ただただベッドに横たわる詠斗を見る。
相変わらず眠り続ける詠斗。
髪が伸びて、あんなに日焼けしていた肌もうっすらと青白くなり、その分詠斗になった僕は真っ黒に焼けて見た目はもう本当に入れ替わってしまったくらい僕たちは真逆になっていた。
もう身長も詠斗を超したかもしれない。
ここに横たわっているのは、かつての僕なのではないかという錯覚すら覚える。

「なぁ...詠斗」

返事はない。
父はたまに様子を見に来るものの、祖母はもうここには来ない。
そりゃあそうだ。だって、詠斗はいるんだもの。
ここに寝ている「僕」に、きっと興味はない。

そういえば僕は、いつからここに1人で来るようになったんだろう。
いつの間にか父とも一緒に来ることはなくなっていた。
なんだかそうしなければいけない気がして、毎回一人でここに訪れた。


僕は、詠斗は、これからどうなっていくんだろう。
僕は何を望んでいるんだろう。
いっそこのまま本当に僕が詠斗になれればいいのに。
きっとその方がみんな幸せなはずだ。
でも、だとしたら。
もし詠斗が目覚めた時、僕はどうすればいいんだろう。
僕の中で、あの黒い気持ちがうごめく。


「あら、こんにちは。いらっしゃってたんですね」

音もなく開いた扉から看護師が現れ、僕ははっとして無言でお辞儀をすると顔を伏せるようにして病院を出た。
帰り道、僕は幼い頃に自分の中に押し込めていた何かが溢れ出しそうな気持ちになって、それを消し去りたい一心で全速力で走った。
詠斗はまだ、目覚めない。



「おい、今から病院来れるか!詠斗が...詠斗が!」


父から電話が来たのは、その数日後のことだった。
なんとなくあの日から病院に行く足が向かなかった僕は、学校を終えるといつものように「遊んでくる!」と元気よく家を飛び出し、誰もいない土手で川を眺めていた。
夏休み、叔父の家であんなにも待ち望んでいた電話を受けて、僕は急いで走り出す。
走りながら僕の心臓はぎゅっと締め付けられているようだった。
詠斗に会いたい気持ちと何かが消えてしまうような恐怖に襲われながらも、僕はとにかく走った。

どうしよう。
詠斗が、僕が。
まとまらない思考が何度も何度も巡る。


病室に着くと、ベッドの横に父がいた。
息を切らしながら、ゆっくりと前へ歩いていく。

ベッドを覗き込むと今まで時が止まったように閉じられていたその目と、目が合った。

「え...いと......?」

その目は一瞬細くなり、小さく口が動く。

「......ちゃ...」

「え...?」



「にいちゃん」


詠斗がへらっと笑った。
その瞬間、小さい頃から今までずっと傍で見てきた詠斗の笑顔が走馬灯のように蘇り、耳が、手が、目が口が、体中の細胞が脈打って震えた。
火がついたように全身の血が駆け巡って体が熱くなったのを感じる。

「詠斗...!」

「にいちゃん」


父が膝から崩れるように座り込み、そして震える声で僕に言った。

「すまない。すまなかった...ごめんな、ごめんな悠斗」


そうだ。僕は、悠斗。
そして僕のことをにいちゃんと呼んでくれる唯一の存在が、詠斗だ。
詠斗の呼んだ「にいちゃん」が、僕そのものを指し示してくれている気がした。


詠斗が、目を覚ました。
そして僕も今、再び目を覚ました。

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