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文芸創作学科の思い出と、セカンドキャリア。


マンガを描くことと同じくらい、文章をかくのも好きだ。


けれど、それを仕事にしようとはとても思えず、
漫画家以上になるのが難しそう、という想いがあった。

昔ながらの東大卒の文学者のイメージが強力にこびりつき、
頭がいい人がなるもの、選ばれし人がなるもの、という気持ちがあった。

だから自分のためだけに、
趣味で日記や手紙は文字がかける頃から毎日書いていた。


小1のとき、担任の先生がわざわざ家にやってきて、
「お返事しきれないから、手紙を書くのをやめさせて下さい」
と注意されるほど、先生や友達に手紙を送りつけるのが好きだった。

大学3年生のとき、所属していた文学部の中に
「文芸創作学科」というものが新たに創設された。

小説や詩、エッセイや感想文、短歌や俳句などの作り方を学ぶところらしい。

私はといえば、当時「文明学科」という途方もなく説明に困る学科に属し、
しかも、興味の薄い「アメリカ文明学科」に入っていた。



なんでここ選んだんやろ。。。why❓

大学受験に落ち、滑りどめで受けた大学だった。
母校が海外から認められる優良大学ランキングなるものに続けて入り出したのは、卒業後のことである。


フラフラしていた当時の私は、ただ「人気だから」というだけでアメリカ文明学科に入った。

ちょうど「神々の指紋」が大人気ベストセラーとなっていてそれに憧れて入っている子がたくさんいた。

マヤとかアステカとかインカ文明の英文論文を追求してゆくようなところだ。

フィールドワークで頻繁に南米の遺跡発掘に出かける教授陣は豪胆で荒々しい人が多く、授業中、時に怒号が飛んだ。
いつもちんぷんかんぷんの英文授業に緊張しつつ、頭にはクエスチョンマークが常に点灯していた。早くも脱落者であった。

文明学科は多学科の教科を受講しても単位がとれるということで、
文芸創作学科や、映像学科の授業に逃げるように潜り込んだ。
結局、目の前の事象より空想やイメージの世界の方が生きやすかった。

文芸創作学科では、ある小説家の作家さんが教授であった。
受賞歴も多く、今は大家になられている。

非常に穏やかな雰囲気で、まだ壮年だったろうが、老師の雰囲気を醸し出していた。

登校中のバスで居合わせて、
冬の朝の日差しに照らされて、背中を心持ち丸めて静かに読書をされている様子をよく覚えている。

落語好きで、ひたすら録音した落語を聞くという、私にとっては寝落ち必須の授業もあった。

短編の課題が出た時、初めて小説のようなものを書いた。


当時作っていたマンガの投稿作のネームを活字に直したものだった。

それを、なんと、みんなの前で作者が朗読するのである。

どんなに長かろうが、全文朗読。うへえ。

公開処刑のような、それはもう恥ずかしさMAXの授業だったのだが、
予想に反して好評で、知人や知らない人から
「よかったよ」「この話、すごく好き」と言ってくれたのが嬉しかった。

先生から「三島由紀夫の空気に似ている」といわれ、顔から火が吹くように恥ずかしかったのを覚えている。
先生も少女のポエムのような代物を聞かされ、苦し紛れの寸評だったのではないだろうか。。。
三島作品も当時「仮面の告白」と「金閣寺」しか読んでおらず、まったく意識はしていなかった。

映像学科では、長年映画批評家をされている先生に卒論をみてもらっていた。

大学に入ってよかったなあ、と思えたことは、著作を出している方から教えをこうことが出来たことだ。

当時映画が好きで、マンガ作りの参考になるからと、映画館を回ったり毎日ビデオを観て新旧作品を楽しんでいた。

私の卒論は明治初期から昭和までの女性像を黒澤明監督、他の日本映画から読み解く...みたいな摩訶不思議なものだったと思う。
もちろんアメリカ文明学科の卒論なので、大いに脱線していたのにも関わらず、担任の教授はあらゆる面で「おう、勝手にやれ」という風に懐広く応対くださった。

摩訶不思議すぎて、どう収拾をつければいいのか分からず、
やたらと長文の論文だったが、何故かSS(優良論文)に入って、冊子に載せて頂け、ほどほどにいい成績で卒業できた。
実は、卒論の提出が期日に間に合わず、隠密で1日待ってもらった。
そういう負い目があるので、この結果はより一層良心が痛んだ。。。
けれど、今思うとB級芸術論の域を出ない出来だったと思う。

大学に入った時は人生の敗残者気分だったが、
最終的には、この学校でよかったな〜と、晴れ晴れとした気持ちで卒業できた。

図書館の蔵書数も多く、自由に学内のスポーツジムやプールも使えた。
(わたしは行かなかったけれど、友人は「こんないい設備、無料でラッキー」とジムに行っていた)
航空宇宙や海洋学科など、先進的なテクノロジーの学科作りにも熱心で
大金の授業料をむしりとってゆくだけあって、学ぶ環境はすこぶる良かった。
教師からのハラスメントアンケート、相談窓口なども当時から実施されていた。

くそう、また戻りたいぜ。。。

そして、卒業時には
「やっぱり自分には創作しかないんだな」ということがわかった。

以降、わたしと活字の関係は読む専門、ひっそりと日記をかく、手紙や人におくるだけとなった。


5歳から憧れ続け、ずっとマンガを描いていたいという夢から
経験を積んで目の前を直視せねばならない現実に変わり、
限られた漫画描きという時間と寿命の中でなにをすればいいのか
今は明確にする時期になった。

漫画は「絵」でみせる作品でもある。
この「絵」が古いと一発で読まれない残酷な現実がある。
音程が外れたシンガーの歌をきいて、いたたまれなく感じる感触とよく似ている。
マンガも歌も演技も絵もダンスも文字も、上手い、下手は誰でも一目でわかる。

そしてマンガは、映画やドラマ、コントのような舞台すべてを1人で具現化させるエネルギーがいる。

体力的な問題や、自身の絵とセンスと流行の兼ね合い、将来を踏まえて、
自分のマンガが作れる寿命は残り4、5年くらい、
求められなければ1、2年とみている。
将来AIの進化で絵をお任せ出来る分、マンガ作者の寿命は伸びるかもしれないが、ちょっと今は不透明だ。


創作が最大限に活かせれる次の方向にゆきたい。
そして、マンガに変わる創作の手立てとして活字を考えている。

活字の最もいいと思うところは、年齢を感じさせないところだと思う。

わたしのようなものでも、noteで気軽にかける。
そして漫画のように一作作るのに多動力が求められないところも、
エネルギー的にいい。働きながら書ける。


まだしばらくはマンガ描きとして頑張ってゆきたい。


漫画はものすごく苦しい道のりだが、お金をいただければ万々歳だし、
人から読んで頂けたら有頂天な心持ちになる。
有限ある漫画家寿命を悔いなく描いていたい。
商業ならば主人の休職中、小さな生活費を得るため二、三年持てばいいところ。


自分があたためている作品を、漫画で作る方が有効なのか、
それとも活字でも有効なのか見極めて取捨選択してゆきたい。

それに今まで苦しんだ分は、必ずセカンドキャリアに生きてくると思う。

商業マンガの需要がなければ、もっとたたむのは早いと思う。

その場合今と同じフリーになるけれど、
これから一年と少しで「ブルーランプ」を
最終話(5話予定)まで作って第一の人生の区切りをつけようと思っている。

どちらのカードをとっても納得して頑張れると思う。

そしてどちらのカードも、創作意欲を満たしつつ、子供と離れずにすむ。

先の見えないマンガに執着し続けると、家族を波乱に巻き込み、
わたし自身も孤独で終わるだろう。。。
ゴッホのような生き方は、それはもうものすごく尊敬するけれど、家庭人としては「最低」だ。(家庭を持たなかったのはゴッホの良心だと思う)

子供にも大きな我慢や傷を負わせる。
一番身近で愛してくれる存在を裏切るのは、自分が大切にしている生き方や信条にもおおいに反する。

自分がメンタルを少し病み、できないことが多いので、
子供にはそのような原因を作るストレスを被せたくない。

商業でマンガを続けることが出来るなら、
お金という報酬と、描く自信が生まれるし、プロの読者とのやりとりの中でマンガも向上出来る。


そうでないのなら、働くか専業主婦に徹して、
マンガより多動力がいらず、より早く第二の創作人生のステップに踏み込め、
作品も多く発表できる。

これならどっちでもいいや、どっちの道でも進みたい、と思った。

区切りをつけたあとは働きながら、できれば活字の講座のようなものに通ってエッセイや小説の書き方を学び、小さなコンテストから応募してゆこうと思ったりしている。

今後は新旧の活字や物語に親しむこと、
国語辞典で語彙を増やすことを今できる目標にしたい。


長く思い悩む時期を20代30代で嫌というほど味わってきたので、
老境では次のステップまでにズルズルとした苦しい時間を過ごしたくない。


今のマンガを頑張りながら、新しいキャリアの準備をしてゆきたい。
40半ば、50手前なら、第二の人生を始めるにはいい年代だと思う。


「ものかき」としてお話を文字におこして表現する技術を掴むには
5年はかかると思う。
自分のマンガレベルでいうと、今の文章力は19歳くらい。
まったく未知だし未熟。
マンガとは違う描写力が必要だし、お金も入らないかと思う。


けれど、今まで関わってきた人から

「あなたの言葉や文章で励まされた」

という言葉を学生の時分から幾度もいただいていた。
褒められた数は、かなしいけれど漫画より多い。

このnoteでTwitter以上にフォロワーさんが多いのも、
漫画ではなく、活字を毎日投稿しているゆえだと思う。

どんなに疲れていても、活字を手離すことはなかった。
その自然とやってしまう感じは、漫画以上だった。

人を励まし楽しませることが自分にもできるなら、
それはチャレンジする価値がある。


今はまだ、趣味日記程度でnoteに綴るくらいしかできないが、
それでも「創作」というものに魅せられ、取り憑かれたものとして、
マンガと一緒に細々と続けてゆきたい。

そして残りわずかのマンガ描きとしての寿命と、次の人生を合わせて、
今までの鬱的な過去を吹き飛ばすほど、明るく歩んでゆこうと思う。

5歳からマンガだけに縛られていた自分が、

このように思えたのは、生まれて初めてだった。

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