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おませな娘と発達遅めの自由人の年子育児中。療育の保育士。カウンセラーもちょっとだけ活動…

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おませな娘と発達遅めの自由人の年子育児中。療育の保育士。カウンセラーもちょっとだけ活動中。だいだい疲れてるヘロヘロなママです。日々試行錯誤しながら息吸ってたら辿り着いたのは、いまで十分。わたしらしくいよー!でした。意識高くないです(笑)星よみも楽しんでます。気軽にふぉろみー!

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私らしく生きる。

→自己紹介chari(ちゃり)です。 たくさんの葛藤だらけの学生時代。組織のコマになるまいと、上司にキャンキャンいいながら、奮闘していた会社員時代。 今となっては、1歳3ヶ月差の年子を育てながら、保育士をしたり、カウンセラーをしたり星よみしたりブログを書いたりしながらヘロヘロな毎日を送っている平凡な主婦です。 世の中の母親と自分を比べては、落ち込みすぎていたあの日から、 気づけば6年も経っている今日この頃。 いまのままでじゅうぶん。私らしさ100%で生きようじゃないか!と

    • 助けて欲しいのは「いま」なのに

      息子は、発達ゆっくりちゃん。 関係機関とのやりとりをすることが多いけど そのたびに感じる心の声。 「いま話を聞いて欲しい。」 「いまの様子を見て欲しい。」 主要検査や病院は 最低でも3ヶ月先の予約は当たり前 「いま」感じている悩みと その数ヶ月先の予約時点での困り感って 全くもって違う・・・ 同じでもピークが違う、波がある。 「いま」辛いなって感じていたり 「いま、これで困っている」ことがある その時にちょっとだけ手を差し伸べて欲しくて ちょっとだけ寄り添って欲しくて

      • 考え方のくせに気づいたら

        何度も繰り返してしまう考え方のくせ それに気づいた時が手放し時だ!と思い、振り返ってみる 人によってそれぞれ違ったものの見方捉え方がある それに気づく場面って何度も繰り返しあきあきしてる時もあるけれど 私の場合はやっぱり人からポロッと言われた言葉が多い 「chariってこれよく言ってるよね」 ・・・・わぁ!たしかにそうだ、いつも言ってる。そう気づく。 で、大体の場合、そのままにしてしまう (またこの考え方しちゃってるよぉぉぉ) (やめないといけないなぁぁ) 「やめない

        • 夫婦喧嘩に学んでることと怪奇現象。笑

          今、夫と喧嘩をしている(笑) ほんの些細なきっかけから始まった。 初めにいわせていただくと、夫のことを責めてはいません。笑 私自身も悪い部分がもちろんあるので。私自身の学びと気づきのアウトプットとしてお読みください🙇‍♀️ そもそもの火種はベースに疲れ、さらにいつも以上の子どもの癇癪による苛立ちの蓄積だと思う。イライラしていた、夫も私も。 だから、いつもなら流せるやりとりが許せなかったんだろう。 昔の私だったら、いつまでも意地を張って周りに不機嫌をたくさん投げてくる夫に対

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        私らしく生きる。

          白か黒かではないと思う

          「良いか悪いか、悪いは徹底的に排除する。それが令和。」 どこかで誰かが発言している言葉をふと思い出す。 ものすごく皮肉たっぷりに今をとらえているなぁと 思いつつも怖いなーともやもやぞわぞわする。笑 白か黒だけではないはずなのにね。 徹底的に排除する、晒し上げる 怖いよー本当に・・・。 *** 何か問いを立てた時に、 その答えって人の数だけある 人の数だけある答えが最終的に 黒か白かで分けられるのだろうか? 答えを用意すれば、二つに分けられるとおもう だけど、そもそも

          白か黒かではないと思う

          きおくちがい

          当たり前のことだけど 同じ出来事を共有していたとはいえ その時の記憶が相手と自分で同じかというと違う場合もある それは、その出来事に対する視点が違うから 私が見る世界と他者の見る世界 同じ出来事を見たとしても 違うフィルターを通すのだから まるで異なるってこともある 反対に、同じような時もある 自分の現実は自分で創っているという言葉が この「きおくちがい」とも思える体験を介すと ものすごくすんなりと納得ができる ** 私が衝撃を受けたのは、自分の結婚式の時に知らされた

          きおくちがい

          ちょっとだけ、変わったこと。

          10年前の自分は、 『社会とはこうあるべき以外、他にない』 という極端に狭められた価値観だった。 目に見えないことやものに関係すること それは、自分自身の本当の気持ちも含めて 粗末に扱うようなものだったと思う ただ、その時の自分は それしか答えがないんだと思っていた。 枠組みの中で苦しみ、もがいて その中でできることを精一杯に できる限り、やっていたと思う 結果として、自分も人も 傷つけることになってしまった。 今となっては、 『こうあるべき』という枠組みの外側にあ

          ちょっとだけ、変わったこと。

          「こうじゃなきゃ」と無意識に決めすぎてる自分に気づいて、ゆるゆるゆるめていく。

          「これはこうしないといけない」「あれはあーしないといけない」 物事の大きい小さいは全く関係なく、自分の中で決めつけていることがあまりにも多いという事実に気づけたのは、他者の存在のおかげだったりすることが多いchariです。 私に限らず、みなさんきっとそういう経験があるのだろうなと思います。 そして、気づいてゆるめてをゆるゆる繰り返すうちに自分ってなんて愛らしいんだ!笑 と思うことも多くなりました(°▽°)あは 前回、良かれと思ってしたことが相手にとって良いとは限らないという

          「こうじゃなきゃ」と無意識に決めすぎてる自分に気づいて、ゆるゆるゆるめていく。

          良かれと思ってしたことが必ずしも相手にとって良いこととは限らないことを知る

          きっと力になるかも知れない。あの人の力になりたい。 そう思って誰かのためにしたことが、そうでないことって案外多いと思います。 そして、そうでなかった時にしてあげた側が「どうしてなんだ!!」と苛立ちを抱えてしまい、次第に関係にヒビが入り、トラブルにつながっていくことが多いなと感じるのです。 その状況を俯瞰してみていると、とても勿体ないトラブルのように見えてもしまいます。 シンプルに助けたい思いで手を差し伸べようとしていた本来の思いが、いつしか期待に変わってしまうとどんどん

          良かれと思ってしたことが必ずしも相手にとって良いこととは限らないことを知る

          3歳半検診と違和感。

          先日、息子の3歳半検診でした。 息子は、発達に遅れのある子なので、保育園の巡回相談という枠で心理士さんに定期的に子どもの成長を見ていただいています。 そのおかげで、検診日は時間の変更をお願いしたり優先枠を使えるように事前に連絡してみてくださいと教えてもらえました。 心理士さんには、「わざわざ健康診断で無理をする経験をさせる必要はないと思うんです。ママもね。頑張って無理して2人で嫌な気持ちになることよりも、一つでもできたら、、できなくても十分くらいの気持ちでいければいいか

          3歳半検診と違和感。

          甘えではない。

          働いている療育施設で、先日子どもが退園した。 入所施設が決まったからだ。 そのお母さんが言ったお別れの言葉が忘れられず、頭の中をぐるぐるしている。 たくさんの葛藤があったと思う。たくさんたくさんママもその子も家族みんなで、私たち支援者が想像する以上にたくさんの苦労をしてきたと思う。 ママが言った、 "私の甘えでこうなってしまった(入所することになった)"と言う言葉の中につまったいろんな思い。 ズキっと心がえぐられる音がした。 そして、甘えなんかじゃないよってすごく抱き

          甘えではない。

          週末の遊び場さがしが辛かったけど・・・

          息子を連れて公園に行くこと、買い物に出かけること、ちょっとだけ外に出かけることすら億劫になり憂鬱になっていた時期があった。今日はその中でも週末の遊び場について書こうと思う。今でも疲れている時は、憂鬱になる。だけど、以前よりも「心のゆとり」ができたおかげで、見方が変わったことを実感している。 公園探しは本当に苦労する。条件がたくさんあるから。 娘1人だけを連れていくならどこの公園でも大丈夫。行きたいところに行きたい時に行けるのだけど。。娘となら、たとえ人がいっぱいいたとしても

          週末の遊び場さがしが辛かったけど・・・

          なんで私が家事を全部やらないといけないの?の裏にある本当の気持ちに気づく。

          大量に積まれた(後回しにし続けてた笑)洗濯物を畳んでしまった後、昨晩めんどくさいと洗うのを放置した食器を見て、愕然としながら思ったことだった。。。 このムカつく気持ちが定期的に襲ってくるのを私は知っている。 なんでそこに焦点を当てて怒りが湧くのだろう?と思った時、だいたいその裏には自分に対する「もどかしさ」と「罪悪感」が隠れていることが多いと知った。 その「もどかしさ」と「罪悪感」はどこからきているのだろう?と考えてみると、自分が思っている理想と今との比較だったり、勝手に

          なんで私が家事を全部やらないといけないの?の裏にある本当の気持ちに気づく。

          周りのあたたかさを感じる

          自分の中で何かが変わってから、周りの景色が変わり出した。 あの時は絶対に譲れなかった思いも、今の私にとってはその思いに対してどうとも思わなくなった。良いも悪いもなく、そうであるということだけ感じるようになってきた 自分の中でふとネガティブな思いが出てきた時、「そうだ、これは私が創り出しているだけなんだ」って思うと、スーッと落ち着いて、その思いを客観視できるようになってきた こういう繰り返しをこれからもしていくのだろう。 自分に向き合ったらこれでもかというくらいいろんな感

          周りのあたたかさを感じる

          むすこのきもち。

          新年度に入り、早くも保育園の先生から 『お母さん、ごめんなさい。息子ちゃんお友達に手が出ちゃっていて。止められなくてごめんなさい』を言われました。 新年度入ってから手が出てしまうことを聞いていなかったので、大丈夫かなーと心配しつつも、ちょっと落ち着いてきてたから平気なのかな?と思っていた矢先だったので、けっこうショック。。 『お友達は大丈夫ですか、本当にごめんなさい、、、、』 とひたすら謝り、ケガがひどくなくてよかった、ただそれだけ。。。 やられた方の親からしたら納得も

          むすこのきもち。

          自分をまるっと愛するということ

          『自分をまるっと愛そう。』いつだかnoteで書いたこと。 この「愛」の言葉のイメージを、愛おしさ、優しさ、柔らかさ、あたたかさ、穏やかさ・・・ふんわりとまぁるい。 と、そんなイメージを持っていたのだけれど、それはそれで良いのだけど。 いい部分だけでなくて、そうではない、黒い塊のような、汚れてて、ボロボロで、せわしなくて傷んでいるような、、、 そういう部分も「愛」の一部であるということを近頃、実感している。 いつのまにか、綺麗でいようとしていたな。愛で包みたくて。 汚い

          自分をまるっと愛するということ