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きおくちがい

当たり前のことだけど
同じ出来事を共有していたとはいえ
その時の記憶が相手と自分で同じかというと違う場合もある
それは、その出来事に対する視点が違うから

私が見る世界と他者の見る世界
同じ出来事を見たとしても
違うフィルターを通すのだから
まるで異なるってこともある
反対に、同じような時もある

自分の現実は自分で創っているという言葉が
この「きおくちがい」とも思える体験を介すと
ものすごくすんなりと納得ができる

**

私が衝撃を受けたのは、自分の結婚式の時に知らされた
姉からきいた過去の私の話だった

それまでずっと信じていたことが、『そんなわけない』と
べりべりべりっと引き剥がされたような
心が深く傷つくあの感覚は、今でも思い出す

このきおくちがいに、
私の中で記憶を美化していたのかと自分を責めたし
違うと信じたいけど、自分自身のことが
ますます信じれなくもなった
そんな体験だった

今の私ならこう思う。
あの時に起きていた実際の出来事が重要なのではない
その他者とのズレを認識した時の心の反応が最重要なんだと。


あの時の私は記憶の中でも、その時の意思決定でも
「自分がこうしたい!と決めてやったこと」だと20年信じていた

それが姉の記憶によればそうではなかった

としても、
あの時の私はそれがものすごく
自分の中の確固たる自信になっていて
だからこそ私は価値があるとも思っていた

しかし、
確固たる自信として自分の中に確立していたはずのものが
姉のたった一言で、音を立てて崩れ去る様をみて

「本当に私には何もなかったんだ」と
自分の中に無価値観のレッテルを貼ったのも
20年越しのズレで感じた体験の一つだった


**

改めてこの話を思い出したのは、
祖父の法事での親戚の会合がきっかけだ。

昔話に花が咲き、
いつものように私は、姉と比べられて
「おまえは平凡で荒波のない人生」という
親戚たちにカテゴライズされた「私」という存在を

「私のことを何も知らないくせにムカつく」という
心の声を抑え込んでにこやかに
姉を立てて、自分を蔑む役目に励んでいた

そんな私を見てなのか
祖母が柔らかな表情で私に投げかけてきた

「一歩引いていつも周りに働きかけること
誰にだってできるわけじゃないんだよ。
優しい子だよ。本当に」

祖母からの突然の言葉に
心がじんわりと暖かさを感じた。
そういうふうに見てくれる人もいるんだ。


**

姉の言葉や存在について考えた。
私の中に
「姉はいつだって私より優れている」という思い込みや
「親戚はいつだって平凡な私でいることを望む」という思い込みを

私自身がいつまでも握りしめていた
ということに気づく

自分自身を20年支えてきた自分の中の記憶よりも
姉の記憶に飲み込まれ無価値観のレッテルを自分自身に貼ったのも
その思い込みゆえだろうと思う

それに気付いたのなら、あとは手放すのみ。
姉との比較をして落ち込むのも
そうすることで自分自身を守っているのにすぎない
という見方もできた


どんな体験も全て私にとって価値がある。
それで感じ得た感情をどう料理するかで
こんなにも見える世界は変わる

あの時のできごとに引っ張られる必要はない。
あの時の出来事を新たな視点で見た時に
その出来事を特定の感情で縛り付けて
ラベルづけをしていたことに気づくはずだから。

ひとりひとり、自分自身の人生を生きている。
きおくちがいなことだっていくらでもある。
間違っても、違うんだと自己否定的になる必要はない。

周りが私に教えてくれるのは、魂が「っ最高!!」
と思う体験をするためのきっかけ。
体験で得た感情を味わい尽くしてみよう

chari














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