空無辺処

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最近の記事

幸運と不運

実生活を生きる私たちは、時おり「今日は運がいい」とか、「私は運が悪い」というように、自分の力ではどうにもならない状況についての感想を持つ。それはそれで楽しい。私も、「今日はツイてるな」とか、「ツイてないな」と感じることはある。 人は、たいていの場合、短い期間か近い人間関係の中で、比較をして、幸運や不運を考える。昨日はそうでもなかったが「今日は運がいい」とか、あの人はうまくやって成功しているが「私は運が悪くて」成功していないとかいったことだ。 才能を見込まれながら夭逝した芸

    • 生まれと育ち

      教育社会学や遺伝行動学の研究結果から、人の人生に遺伝的要因が大きな影響を及ぼしていることがわかってきた。遺伝子によって、先天的に人生がある程度まで定まってしまうのであれば、人が何かを実現しようとして努力をすることは、人生の中で、わずかに遺伝子の呪縛の及ばない可変部分のために足掻くだけの行為なのだろうか。 「遺伝か、環境か」という古くて新しい問いだが、大上段に構える必要はない。研究によって明らかになってきた「遺伝的要因が主」という結果は、あくまで体型や知能指数、性格、アルコー

      • 瞑想を文字で表現する愚行・その4

        「瞑想のやり方がわからない」と言う人は多い。 でも、実はそう言っている人も、日々の生活の中で、瞑想と同じようなことをしている。もし、個々の行動を「瞑想度」というような物差しで判定して、0から100というようなスコアをつけるとしたら、入浴中にリラックスして何も考えていない時や、クラシック音楽を聴いている時、興味のある本を読んで没入している時、仏壇に線香を焚いて先祖のことを思う時、無心に玉ねぎを刻んでいる時など、それぞれに「瞑想度」をつけることができるだろう。 何も、「瞑想、

        • 瞑想を文字で表現する愚行・その3

          前は、ストレッチを習慣にしていた。最近は瞑想の回数が増えた分、ストレッチの回数が減ってしまった。1日おきに瞑想とストレッチをするように試みているが、ストレッチが面倒な日は瞑想優先になっている。 私は、ストレッチをする時、40~50分をかける。筋肉や腱、骨格などを意識するのは当たり前だが、内臓や脊髄、血管も「正しい」位置になるように意識しながらやっている。自分の身体の中のどこにあるのかもろくに知らないのに、「正しい」位置になるように意識するというのも変だが、身体のどこかを圧迫

        幸運と不運

          瞑想を文字で表現する愚行・その2

          日々、一定の時間の瞑想が習慣になってから、明らかにここが変わったなと思うことを挙げておく。いわば、瞑想することの「効果」を語るということだが、私は効果がほしくて瞑想しているわけではない。ただ、「やっていたらこういう変化があったと感じる」ということを記すというだけだ。 1.時間がかかる1日の24時間のうち、私の場合は30~40分を瞑想に充てているため、その間は他のことができない。当たり前だが、瞑想する分、時間を「失う」ことになる。 毎日それだけの時間を語学や筋トレや何かのス

          瞑想を文字で表現する愚行・その2

          瞑想を文字で表現する愚行・その1

          ことさら人に「私は瞑想をしています」と言うことはあまりない。私にとっては、瞑想は食事や睡眠、用便に似て、あえて人に言うようなことでもない。 それでも、何かの拍子に健康法などの話になったとき、瞑想をしていることを話すことはある。マインドフルネス流行りのお蔭か、最近では瞑想の話をしてもイロモノ扱いされることは少なくなった。むしろ、「やってみたいけどやり方がわからない」という人の方が多いように感じている。 「瞑想をするとどんな効果があるのか」を聞きたがる人も多い。脳の中でなんと

          瞑想を文字で表現する愚行・その1

          「隠された唯一絶対の法則」的なこと

          アオウミガメは、卵から孵ったばかりの頃は体長5cmほどだそうだ。それが、ほとんど海草や藻だけを食べて、20年ほどで100cmほどにまで大きくなる。 日々摂取した海草や藻が、小さな子ガメの血肉となって身体を大きくしていく。その生命活動は、海草や藻という形のものをアオウミガメへと変えていく過程だ。 宇宙の中で、アオウミガメという出来事が起こる。それは、海草という出来事、藻という出来事を、アオウミガメという出来事に変え、さらにその捕食者という出来事や、生命活動を終えた後の身体の

          「隠された唯一絶対の法則」的なこと

          愛すること、感応すること

          「愛する」という語では言い表しつくせないことがある。この語を使うと、どうしても「愛する」対象を外部に措定して、「〇〇を愛する」という形にせざるを得ないからだ。 言挙げすることで、かえって本質から遠ざかってしまうことがある。実生活では「言ってくれなきゃわからない」ということもあるが、「言ってしまうからわからない」ということもあるということだ。 そもそも、私もあなたもあの人も、宇宙の中で生じた出来事であって、一体でつながっている。「つながっている」と言うと、別々のものが関連づ

          愛すること、感応すること

          何かを信じること

          お守りに意味はあるか。お参りに意味はあるか。読経に意味はあるか。座禅に意味はあるか。 「私」という出来事が、肉体を伴って起きている期間は、宇宙の中ではほんの僅かなものだ。電気信号や伝達物質のやり取りで私という出来事が何かを感じたり、記憶したりする。それもまた一つの出来事であって、ただずっと出来事があるというだけにすぎない。 出来事それ自体には、意味はない。ただ、そういうことが起きたというだけだ。私の人生も、実生活上の存在としてはさまざまな思いを抱え、喜んだり悲しんだり悩ん

          何かを信じること

          人の命は誰かのものか

          私は、私の命を自分で処分していいのか。あなたは、あなたの命をあなた自身で処分していいのか。 人は、死なない。私の肉体的な生命活動が止まっても、私という出来事はなくならない。それは、いわゆる自然死でもそうでない死でも同じこと。自然死という出来事、自然死以外の死という出来事があったというだけのことだ。 自殺を禁じる宗教がある。それをベースとした社会、文化を持つ国がある。 日本、日本人はどうかというと、多くの人が「宗教的に自殺を禁じられている」とは感じていないだろう。どちらか

          人の命は誰かのものか

          喪失感と生活のリズム

          近親者を亡くしたとき、悲しみや喪失感を覚えるのは自然なことだ。絶望を感じる人もいるだろう。 私は、「人は死なない」と言っているが、実生活上の存在として近親者が生命活動を終えたとき、自然と悲しみを感じる。 「人は死なない」のだが、生命活動を終えた人とは、会話をしたり、ともに笑ったり怒ったりすることはできなくなる。姿かたち、声、匂い、温もりなど、身体に由来するものが眼前からなくなり、追憶の中に求めるしかなくなる。それまでに自分の生活、思考のリズムの中で、その人が重要な役割を占

          喪失感と生活のリズム

          他人の痛みがわかるか

          たいていの人は、他人の顔を殴る時、心に負荷がかかる。それは、粗暴な人でも同じらしい。人が傷つくことに一切の躊躇いを覚えずに暴力を振るえるサイコパスは、それほど多く存在するわけではない。 誰かが殴られて鼻血を出すような場面を想像しただけでも、人はゾッとするものだ。それは、殴られた人の痛みを、自分がこれまでに体験してきた痛みになぞらえて想像し、自分が殴られたかのように共感し、同調するからだ。 人と人とは、共感を通じてつながっている。だから、他人を意図的に傷つける時、人は相手の

          他人の痛みがわかるか

          受け入れる、受け止める

          宇宙で起きていることは、すべて正しい。 「正しい」と言うと、評価しているように聞こえてしまうが、他に当てはまる言葉が今ひとつ思い浮かばない。強いて言い換えるなら、「宇宙で起きていることは、すべて『その通り』である」というのが私が表現したいことに近いのだが、この文章は説明なしでは意味がわからないだろう。 すべて、正しい。すべて、その通りである。不思議なことも、理不尽なことも、意味がわからないことも、起きていることはすべて、「その通り」であって、他に「本来あるべきこと」がある

          受け入れる、受け止める

          悪魔に祈るのか、自らが悪魔なのか

          恨みや妬みの感情を抱いたとき、人はその相手が不幸になればいいと思うことがある。ただ思うだけではなくて、それを念じる人もいるだろう。 他人に対して面と向かって嫌がらせをするのではなく、人知を超えた力で特定の人が不幸になることを願う場合、たとえば藁人形を使ったり、呪いのまじないを使ったりする人もいるだろう。 そういうとき、人は、「悪魔」とか「悪霊」とか、何かしら禍々しい力をもったものを自分の外に措定して、それに対して「あの人に不幸をもたらして下さい」と願い、頼るのだろうか。

          悪魔に祈るのか、自らが悪魔なのか

          誰かのためにすること

          前の記事で、祈るという行為について書いた。「おおいなるもの」を自分の外に置いてそれに対して願ったり頼ったりするということではなく、宇宙の中での儚い出来事である自分と「おおいなるもの」とが一体であることを識ることが肝要ということだ。 前の記事では、「雨が降りますように」というような、人間が制御できそうにない自然現象を例にとった。 では、特定の誰かのために何かを願うこと、たとえば、何かについて努力している人のために、その努力が報われるようにと願うとか、誰かが健康に過ごしてほしい

          誰かのためにすること

          祈り方を識る

          祈るとは、どういうことか。 具体的な願いごとがあるとき、漠然と何か「いいこと」があるようにと願うとき、また誰かが何かを望んでいるときに一緒にまたは代わりにその望みが叶うことを願うとき、人は、おおいなるものに対して祈りを捧げることがある。神でも仏でも天でもなんでも、人知を超えたおおいなるものが存在すると考え、それに対して望みが叶うように頼み込むのが、よくある祈りの類型だろう。 かつて人々は、干ばつのとき、雨乞いをしていた。 人間は、自分の右手を閉じたり開いたりすることがで

          祈り方を識る