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幸運と不運

実生活を生きる私たちは、時おり「今日は運がいい」とか、「私は運が悪い」というように、自分の力ではどうにもならない状況についての感想を持つ。それはそれで楽しい。私も、「今日はツイてるな」とか、「ツイてないな」と感じることはある。

人は、たいていの場合、短い期間か近い人間関係の中で、比較をして、幸運や不運を考える。昨日はそうでもなかったが「今日は運がいい」とか、あの人はうまくやって成功しているが「私は運が悪くて」成功していないとかいったことだ。

才能を見込まれながら夭逝した芸術家などは、その悲運を人々が嘆く。有望な若手のスポーツ選手がケガで選手生命を絶たれた場合も、不運を嘆くのは本人だけではない。

それらの場合も、やはり、ある程度の期間の中で、または関係する人々の中で比較をして、運の良し悪しを考えている。つまり、幸運も不運も、相対的なものだということだ。

それでも、身体を伴って実生活を送る私たちは、幸運や不運を考えてしまう。しかし、すべては宇宙の中の出来事であって、私たちとは別に存在するおおいなるものが幸運や不運を差配しているわけではない。宇宙の中で偶然に起こる出来事を、実生活の上で私たちがどう捉えるかというのが、幸運や不運の正体だ。

それは、物事の意味を考えるのと似ている。「人生で起きるすべての物事には意味がある」と考える人もいるし、「意味なんてない。すべては偶然だ」と言う人もいる。

起きた物事の意味は、人がそこから何を見出すかによって決まる。不運に思われる出来事も、そこから教訓を得て、後に「必要なレッスンだった」と捉えることもできる。幸運に見える事も、それによって身を持ち崩すこともある。結局、過度に幸運を喜んだり、不運を嘆いたりすることなく、宇宙の中の自分という出来事に去来する物事を受け止めるのが良いということだ。大事なのは、私たち自身も宇宙の中の出来事として生起しているということで、他のすべての出来事(自分の身に「ふりかかる」出来事なども含めて)と同じだということだ。

おおいなるものは、あまねく存在する。そして、あなたも私もあの人も、そのおおいなるものそのものであって、別々のものではない。宇宙の中の私という出来事は、偶然の産物にすぎない。ただ、偶然の産物にも意味を見出すことはできる。逆に、意味を見出さないこともできる。それだけのことだ。

あなたや私とは別に「おおいなるもの」があって、幸運や不運を差配しているわけではない以上、「これをすれば幸運になる」「運気が開ける」といった話は、一旦は眉に唾して聞くのがよい。隠された唯一絶対の法則のようなものは無い

しかし、祈りお守りなどの物、読経や座禅などの行為に意味が無いかといえば、そんなことはない。自らがおおいなるものの中の出来事であることを識り、祈り方やお守りなどの持つ意味を識れば、それらが実生活を生きる私たちにも影響を及ぼすことがわかる。

やみくもに「これをすれば幸運になる」といったことを追い求めても仕方がない。宇宙の中の出来事である自らを整え、それが本来のあるべき姿でなかったり、居るべき場所とは違ったところに居るようなら、努めてあるべき姿、居るべき場所に近づけるようにする。それができなかったとしても、宇宙で起きていることはすべて正しいのだから、受け止め、受け入れていくのがよい。

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