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祈り方を識る

祈るとは、どういうことか。

具体的な願いごとがあるとき、漠然と何か「いいこと」があるようにと願うとき、また誰かが何かを望んでいるときに一緒にまたは代わりにその望みが叶うことを願うとき、人は、おおいなるものに対して祈りを捧げることがある。神でも仏でも天でもなんでも、人知を超えたおおいなるものが存在すると考え、それに対して望みが叶うように頼み込むのが、よくある祈りの類型だろう。

かつて人々は、干ばつのとき、雨乞いをしていた。

人間は、自分の右手を閉じたり開いたりすることができる。つまり、自分の右手を制御して動かすことができる。しかし、「今、ここに雨を降らせよう」というように天気を個別に制御することはできない。天気は、おおいなるものが制御している領域だから、自分の右手のように自由に動かすことはできないと考える。そこで人々は、おおいなるものに対して、天気を制御して人間にとって都合が良いように雨を降らせてくれと頼み込む。

しかしこれは、「人間には制御できない領域」を措定し、それを制御しているはずの大いなるものとやらを作り出し、そのおおいなるものに「制御して下さい」と頼むもので、既に自己矛盾をはらんでいる。ここでは、祈るという行為が、右手を制御するときの脳や神経回路、筋肉の働きとパラレルに、「制御できない事象を制御するための働き」としての意味を持つ。それはあたかも、右手を開く時に、頭で考えて「神経回路よ、右手の筋肉に手を開くように指令を出してくれ」と頼んでいるようなものだ。

人は、宇宙と一体に「なる」必要もなく、存在それ自体が宇宙そのものの出来事にすぎない。自らの外に「神」とか「仏」とか「天」とかいったものを「おおいなるもの」と措定して、それに対して祈るという迂回ルートを採る必要もない。人は既に「おおいなるもの」の出来事であって、雨が降ってほしいと願うなら、雨が降るように自ら念じればいい。

しかし人は、自分の右手を開く方法は知っているものの、雨を降らせる方法を知っているわけではない。だから、一人で今すぐに、特定の地域にイメージしたとおりの雨を降らせることはできない。

事故に遭って半身不随になった人が、苦しいリハビリの末、一度は動かなくなった手足を動かせるようになることがある。それは、訓練によって損傷した脳の一部、神経回路の一部を代替する回路を作り、再び手足の筋肉を自分の指令のとおりに動かせるようにしたということだ。

同じように、訓練によって天気を制御することもできるようになると言ったとき、それを出鱈目だと言い切れるだろうか。

個人の訓練によって、天気を完全に自由自在に制御することはできないだろう。しかし、集団で念じることで、少しでも影響を与えることはできると考えるならば、それを間違いだと言い切れるものではないだろう。人は宇宙の中の出来事で、天気もまた宇宙の中の出来事なのだから。

人は、長い年月の間に、「神」や「仏」を自らの外に措定することで、もともと「おおいなるもの」とつながっていたはずの神経回路のようなものを迂遠なものにしてしまった。そもそも、一個人の行為が宇宙の中の出来事に影響を与えることは、その影響があまりにも小さくてはっきりとはわからないが故に、効果を測定しにくい。しかしだからといって、人が念じても宇宙の中の出来事に何も影響を与えられないということにはならない。

もちろん、「自分は天気を変えることができる」と嘯いて、始終念じてばかりいるようでは、実生活者としては破綻してしまう。しかし私たちは、「おおいなるもの」を自分の外にあるものと考えるのではなく、自らがそれを構成しているものであることも、改めて識らなければならない。

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