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何かを信じること

お守りに意味はあるか。お参りに意味はあるか。読経に意味はあるか。座禅に意味はあるか。

「私」という出来事が、肉体を伴って起きている期間は、宇宙の中ではほんの僅かなものだ。電気信号や伝達物質のやり取りで私という出来事が何かを感じたり、記憶したりする。それもまた一つの出来事であって、ただずっと出来事があるというだけにすぎない。

出来事それ自体には、意味はない。ただ、そういうことが起きたというだけだ。私の人生も、実生活上の存在としてはさまざまな思いを抱え、喜んだり悲しんだり悩んだりするが、それも1ミリ隣りに座っている別の人にとっては意味のないことだ。宇宙にとっても、たいした意味はない。「そういう出来事があった」というだけだ。

人は、自分のために何かを祈ったり拝んだりすることがある。他人のためにも祈ったり拝んだりすることがある。もっと広く、世界の平和とか災害に遭わないこととか、公正・正義の実現というようなことを祈る人もいる。

お守りは、呼び方からして自分のことを災厄から守ってくれる霊験のあるものと思われやすい。合格祈願とか恋愛成就とか家内安全とか、個人的にご利益を得たいものであることも多い。

しかしその実、お守りは自分のことだけではなく、他の人の幸せを願ったり、災いを避けることを願う場合にも働く。

誰かの形見をお守り代わりに身につけているような場合を考えれば、その働きがわかる。形見をとおして、亡くなった誰かが自分を守ってくれた、力を授けてくれたということを感じることがある。形見は、亡くなった人と自分とをつなぐ働きを持つ。一方通行で亡くなった人が自分を守ってくれるだけではない。こちらから亡くなった人に感謝や愛情を伝えるときにも働く。

一般的なお守りも同じ。誰かの幸せを願う時、そのお守りを通して相手とつながり、同調することを容易にする。

祈り方を識れば、祈るという行為が、お守りを通して「自分の外に措定した第三者的なおおいなるもの」に何かを乞う(たとえば「あの人が試験に合格できますように」と頼み込む)ことではないことがわかる。誰かの幸せを願うときは、その人と同調するように祈るのだ。自分もその人も、宇宙の中の出来事であって、つながっているのだから。

自分のために何かを祈るときも同じこと。「自分とつながって同調する」と言うとおかしく聞こえるが、そのようなことだ。心身、魂を整える。本来の自分を識り、宇宙の中の出来事として安定して続いていられるようにする。合格祈願でも恋愛成就でも、お守りがあれば、それを手にしたり目にすることで、自分を整えやすくなる。

受験勉強をしないで合格祈願のお守りをたくさん集めても意味がないことは誰にでもわかる。合格祈願のお守りは、それを手にしたり目にしたりして、自らを整えて勉強をする、試験の時に緊張しないで本来の自分が蓄えてきた力を発揮できるようにするという働きを持つ。

人は、死なない。そして、肉体的に死んだ後も、誰かの記憶という「外部装置」に、その死んだ人の人生という宇宙の中の出来事が残っている。人は、生きていても死んでいても、つながることができる。その場合、亡くなった人の笑顔、声、匂い、温もりを思い浮かべて祈ることで、より一層つながりを強められる。

形見があれば、それを手にすることで亡くなった人を思い浮かべるのが楽になる。それが、形見の働きだ。逆にいうと、形見なしでも亡くなった人とのつながりを感じられるなら、形見を使わなくてもいい。

形見をたくさん集めることも、お守りをたくさん集めるのと同じように、意味がない。形のあるものに亡くなった人を顕現させたいという願望は、その人が肉体的に生命活動を終えたことを受け入れたくない、だから別のモノにその人を化身させたいということに過ぎない。それをしても、その人は肉体的に復活するわけではない。そんなことをしなくても、そもそもその人は死んでいない。あなたの記憶というかたちで生きていて、あなたがその記憶を呼び出す時の道具として形見が働く。

お守りも形見も、それを通して誰かに直接つながりやすくなるための道具だ。逆にいうと、それらなしでもつながることができるなら、使わなくてもいい。そして、そのつながりたい「誰か」は、生きている人でも、亡くなった人でも、自分自身でもありうる。

神社、仏閣、教会、モスクなど、宗教的施設は、巨大なお守りのようなものがそこにあると考えるとわかりやすい。自分がおおいなるものに相対して願望を叶えてくれるよう頼み込むのではない。自らがおおいなるものの中で起きた出来事であって、すべてはつながっていることを識り、自らを整えるために行く場所だ。

形見が亡くなった人そのものではないのと同じように、お守りも神仏そのものではない。神社仏閣も、そこに人間とは別のおおいなるものがいて人間の願いを叶えたり罰を与えたりするというような場所ではない。おおいなるものはどこにでもある。ただ、特別の場所を定めることで、多くの人がその場所に行き、おおいなるものとのつながりを感じやすくなるということだ。

お参りとは、そういうことだ。偶像崇拝を戒めるのは、偶像に「おおいなるもの」が化体していると考えてそれだけを拝むことの愚を説くものだ。おおいなるものは、あまねく存在している。亡くなった人が記憶の中にいるのと同じように、おおいなるものも、人の心次第で、どこにいても、化体した何かがなくても、つながりを感じることはできる。

読経する、写経する、マントラを唱える、決まった儀式をするのは、自分を整える行為だ。お経そのものをただ崇め奉るのは、偶像崇拝と同じことだ。読経や写経は、崇めるのとは違って、定型化された行為に打ち込むことで瞑想状態に入るのを助ける意味合いを持つ。そして、お経の意味内容を考え、自らの生き方を省みる、唱えたり写したりすることで身心を律するというやり方で、自らを整え、おおいなるものとのつながりを感じやすくしている。

座禅は、自らを整える行為そのものだ。只管、座る。スタイルはどうでもいい。椅子に腰かけていても、電車で吊り革につかまっていてもいい。「打座」とは、伝統的な座禅のように足を組んで背筋を伸ばす姿勢によってしかできないものではない。半跏でもいいし、究極的には横臥していても、立っていてもいい。

お守りがあった方がやりやすいなら、神社で手に入れたお守りでも、ロザリオでも、誰かが作ってくれたお守りでも、亡くなった人の形見でも、身につけていたらいい。そういった補助道具がなくても、いつでもどこでも、自らを整えておおいなるものとのつながりを確認することはできるが、あった方がいいという人は、その働きを使えばいい。

お守り、お参り、読経、座禅などのものや行為に、意味や効果、効能、メリットを求める必要はない。ただ自らがおおいなるものの中の出来事であることを識ればいい。

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