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喪失感と生活のリズム

近親者を亡くしたとき、悲しみや喪失感を覚えるのは自然なことだ。絶望を感じる人もいるだろう。

私は、「人は死なない」と言っているが、実生活上の存在として近親者が生命活動を終えたとき、自然と悲しみを感じる。

「人は死なない」のだが、生命活動を終えた人とは、会話をしたり、ともに笑ったり怒ったりすることはできなくなる。姿かたち、声、匂い、温もりなど、身体に由来するものが眼前からなくなり、追憶の中に求めるしかなくなる。それまでに自分の生活、思考のリズムの中で、その人が重要な役割を占めていたなら、亡くした時にリズムが大きく崩れるのは当然だ。そして「あ、もうあの人はいないんだ」という喪失感を覚えることになる。

生前に十分に愛情や感謝を伝えられなかったり、詫びるべきことをきちんと詫びられなかったりすると、後悔と相俟って悲しみや喪失感が大きくなる。若くして亡くなった人に対しては、その悲運、不条理、理不尽を思い、感情を揺さぶられる。

仏壇に花や果物、お茶、ご飯などを供え、線香を焚き、手を合わせるのは、近親者を亡くして、その人が生きていればともに刻んでいたリズムを失った時に、生活の中でそれを埋め合わせる行為でもある。嘆き、悲しみながらも、その人の死を受け入れ、その人が目の前にはいない生活の新しいリズムを刻み始める。

しかし、人の死は、ただその人とともに刻んでいたリズムを失うだけの体験ではない。現実世界で実生活上の存在としてその人とともに刻んでいたリズムは失われる。その代わりに、現実世界ではないところで生きているその人とともに、新しいリズムを獲得するのだ。

それは、実生活上の行為としては、仏壇に供えものをしたり掌を合わせたり、時には読経したりするという形で行われるが、精神の上では、また魂の上では、別の形で行われる。私たち生きているものは、亡くなった人が私たちの記憶という外部装置に残したものと対話することができる。彼は、彼女は、死なずに、外部装置である私や他の友人たちの中にいる。そして、いつでも想念を送り合うことができるのだ。

他に言葉が思いつかないので「外部装置」という言い方をしたが、そもそも、亡くなった人たちも、生きている私たちも、宇宙の中の出来事として生じたもので、自他の区別はない。つまり、「外」も「内」もない。
生命活動を終えて肉体が見えなくなっても、宇宙の中の出来事として存続している。彼は、彼女は、宇宙そのもであり、あなたも、私も、宇宙そのものである。つながっていないわけがない。というより、別々のものがつながっているのではなく、同じ一つの宇宙の中で生起した出来事だということだ。

それでも、実生活上、近親者を亡くした時、その悲しみは大きく、リズムが大きく乱れてしまうのも事実だ。どんなに私が「人は死なない」と主張したとしても、悲しみがなくなるわけではない。

悲しみや喪失感は、亡くなった人とともに刻んでいたリズムの同調の強さを示す。それはつまり、亡くなった後も同調しやすいということだ。

亡くなった人の笑顔、声、匂い、温もりを思い出し、その魂に幸あれと願う。感謝や愛情を伝える。それをしていれば、必ず亡くなった人からも想念を受け取ることができる。それは、必ずしも現世利益的なことではないかもしれない。でも、乱れたリズムを整え、互いの魂の平穏に近づくことができるようになる。

人は、死なない。亡くなった人の周りで、生活のリズムが変わるだけだ。感謝や愛情を伝えて、亡くなった人と同調し、新しいリズムを作ればいい。

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