瞑想を文字で表現する愚行・その3

前は、ストレッチを習慣にしていた。最近は瞑想の回数が増えた分、ストレッチの回数が減ってしまった。1日おきに瞑想とストレッチをするように試みているが、ストレッチが面倒な日は瞑想優先になっている。

私は、ストレッチをする時、40~50分をかける。筋肉や腱、骨格などを意識するのは当たり前だが、内臓や脊髄、血管も「正しい」位置になるように意識しながらやっている。自分の身体の中のどこにあるのかもろくに知らないのに、「正しい」位置になるように意識するというのも変だが、身体のどこかを圧迫していて痺れたり、片側だけ凝ったりすると、それが「正しい」姿勢ではないことはわかる。内臓でも血管でも、ろくに場所を知らなくても、「正しい」位置になるように思いを致すことはできる。

ストレッチをする時、音楽でも聴いてリラックスしたいなと思ったことがあった。そこで、イヤホンをして音楽を聴きながらストレッチをしてみたが、うまくいくはずがない。腕や脚を曲げたり伸ばしたりする時に、イヤホンのワイヤーが邪魔になる。やりにくいことこの上ない。

それで数年前に、ワイヤレスイヤホンを買った。これでワイヤーのことを気にせずに自由な動きをすることができる。音楽でもニュースでも、聞きたいものを聞きながら存分にストレッチをしよう。そう思っていた。

ところが、ストレッチをやりにくくしていたのは、ワイヤーではなかった。耳から流れ込む音楽やニュースなどが、私がストレッチ中にしている「身体との対話」を妨げていたのだった。

前から薄々、そんな気がしてはいた。ただ、ストレッチをしている間はリラックスしていたいし、世の中にはリラックスする時に合わせた音楽が喧伝されている。それで、自分がストレッチをする時も、リラックスする音楽を耳に入れたら良いのではないかと思ったのだった。

しかし、そうではなかった。私は、ストレッチをしている時、筋肉や腱、関節の状態を意識して、20秒ほど一定の姿勢を保つなどの動作をする。左右のバランスやその日の体調に合わせて少しアレンジしたり、場合によっては息を止めてすることもある。

これを私は、「自分の身体との対話」と呼んでいる。こう呼ぶと、自分の意識と身体とを分けて考えて、あらためて対話をするように聞こえてしまうが、そうではない。他に言葉が見つからないので「対話」と呼んでいるが、私の意識も身体も宇宙の中で起きている出来事にすぎず、切り離されるものではない。

イヤホンをして耳から音を流し込むことで、私はこの「身体との対話」がうまくできなくなった。

もちろん、自分で決めたメニューを機械的に順番にこなしていくだけならできる。でも、それでは細かい身体からのサインを捉えることができないのだ。

言い換えると、イヤホンをして耳から意図的に音を流し込んでいても、意識と身体とを別ものであるとみて、意識の側から身体に対してストレッチの動作を命じてすることはできる。ところが、意識と身体を切り離すことなく、ストレッチという身体的な動作・姿勢と意識との瞬間瞬間の相互作用のような感覚を保つことはできないということだ。

私と違って音楽を聴きながらストレッチをした方がいいという人もいるだろう。個人差のあることだから、あくまで私の場合はそうだったというだけだ。ただ、前から薄々感じていたことが、ワイヤレスイヤホンを使ってストレッチをしてみて、ハッキリと「私はストレッチ中に耳から音が聞こえてくるのは苦手だ」ということがわかった。

もしかしたら、ジムでエアロビの音楽などが聞こえている中で一人黙々とストレッチをするというような状況だったら、また違う感覚を覚えるかもしれない。今、感じているのは、あくまでイヤホンをして自ら意図的に音楽などを流す場合のことで、私はそれが苦手だということだ。

そこでわかったのは、私はストレッチをしている時、いわば「ボディスキャン瞑想」と呼ばれるような瞑想をしているということだった。

「ボディスキャン瞑想」という方法論や名称は、最近になって知った。それは端的に言うと、身体の部位を一つ一つ意識して全身をスキャンするようにしながら瞑想するということらしい。詳しくは知らないが、どうも私がストレッチの時に長年、自分なりのやり方でしてきた「身体との対話」と大差はないようだ。

名称も方法論も、私にとってはどうでもいい。私は、私の「身体との対話」の中で、経験的にこういうことをするようになった。これからも「対話」の中でやり方が変わることもあるだろう。

私は、全身の部位を意識してストレッチをする。私の心身と魂の在り様を整えようとする行為だ。ヨガほど長きにわたって幾多の人びとが研究し洗練された方法論ではないが、私なりに現時点で辿り着いたものだ。

私は、瞑想をして、おおいなるものの中での私という出来事を整える。「整えたい」と言うと目的めいて聞こえるが、好きでやっている瞑想によって、結果的に整うことを是とする。整ったかどうか、以前との比較でより整ったかなどは、私の主観にすぎない。それでも、瞑想によって、おおいなるものの中の私という出来事とつながり、私という出来事が今、ここにあることに感謝する。私がするストレッチ、すなわち「身体との対話」も、瞑想と同様に私が私とつながる営みだと感じている。

瞑想をする時は、呼吸に集中を向けている。その中で、おおいなるものの中での私という出来事を思い、宇宙で起きていることはすべて正しい、その通りであると識る。

この時、私はたまに、何十年も前に寝ている時に見た夢を思い出したりする。行ったことのない場所、夢の中に出てきた場所が去来して、なぜこの夢をこんなに長いこと覚えているのかと不思議な感じがする。過去の記憶が急に浮かんでくることもある。脳の神経回路がどのように働いているのか知らないが、ずっと昔に寝ている間に夢で見た光景が自然と頭の中に湧き出てくるとか、急に何とも思っていなかった過去の記憶が浮かんで来たりとかが起こるのは、興味深い。

それらが湧き出てくると、私は自分が瞑想状態に入れているなと安心する。明らかに頭に浮かんでくることが、普段とは違ったものだからだ。

それらが何を意味しているのかは、わからない。大脳が記憶を整理しているのかもしれないし、私の負の感情――不安とか羞恥とか恐怖とかを象徴しているのかもしれない。宇宙の中の私という出来事の脳の中で、そのような反応が起きたということだ。「私」とは、そのような反応の集まりとして存在している。

ストレッチを「身体との対話」と捉えて、集中してやってきた私にとって、瞑想をするようになるのは自然な流れだったと思う。筋肉や骨格を整える。記憶や感情を整理する。そうして、本来の在り様に近づけて、私という出来事を安定させる。同じことをしているのだ。ヨガという方法をとる人もいるだろう。写経という方法でやる人もいるだろう。方法論はいろいろある。

私の瞑想の、「私」に関するところを記すと、こんなところだ。小乗(上座部)仏教的なところとでも言おうか。「私」もおおいなるものの中の出来事であって、小乗も大乗もない。仏教もキリスト教もイスラム教も、方法論はいろいろあるというだけのことだ。

誰かのための瞑想については、次稿で記そう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?