悪魔に祈るのか、自らが悪魔なのか

恨みや妬みの感情を抱いたとき、人はその相手が不幸になればいいと思うことがある。ただ思うだけではなくて、それを念じる人もいるだろう。

他人に対して面と向かって嫌がらせをするのではなく、人知を超えた力で特定の人が不幸になることを願う場合、たとえば藁人形を使ったり、呪いのまじないを使ったりする人もいるだろう。

そういうとき、人は、「悪魔」とか「悪霊」とか、何かしら禍々しい力をもったものを自分の外に措定して、それに対して「あの人に不幸をもたらして下さい」と願い、頼るのだろうか。
それとも人は、不幸になってほしい特定の人に対して恨みの想念を送るのだろうか。

悪魔に魂を渡し、その代償として願いを叶えてもらうという物語は、古今東西問わずにある。悪魔に対して「世界が平和になりますように」とか、「愛する人が幸せになりますように」とか、良い願い事を依頼する話は少ない。

人は、良い願いをかけるときは、人知を超えたおおいなるものを「神」などと呼び、悪い願いをかけるときは、それを「悪魔」と呼ぶ。しかし大事なのは、どちらの場合でも、おおいなるものは、人の外にあって人から願いや頼みを託される存在なわけではないということだ。人とは、おおいなる宇宙の中で束の間起こる出来事であり、宇宙と一体である。

つまり、恨みを抱いて誰かの不幸を願うとき、人は、自ら悪魔になっていることになる。人は、「おおいなるもの」と一体なのだから。

自らを整え、誰かが幸せになるよう想念を送るとき、人は相手と同調してその人に影響を及ぼせるようになる。それは、人間が持つノーマルな力だが、現代人には「超能力」のように思われるかもしれない。

誰かが不幸になるよう想念を送る場合、人の心身は乱れる。自らが整っていない状態では、誰かを同調させて影響を及ぼすのは難しい。そして、想念を受け取る側も、通常は「不幸になりたい」と思ってはいない。結局、他人の不幸を願う人は、自ら進んで不幸になりに行っているようなもので、対象となる他人に影響を及ぼすことは、ろくにできない。

瞑想をしているとき、無を意識し、その意識すらもなくせるようにする。そこには、幸も不幸もない。ただ只管、宇宙の中の私という束の間の出来事を整える。他人の不幸を願うなど、バカバカしくてやっていられない。願うなら、せめて他人の幸せ、世界の幸せだ。

自ら進んで身心と魂を乱し、悪魔になりたい人は、どうぞ好きなだけそうしたらいい。恨みや妬みにグルグルと囚われている人は、そのグルグルが好きでやっているのだから、存分にグルグルしたらいい。

「私は好きでグルグルと恨みに囚われていたいわけではない、あの人が悪いから恨んでいるのだ。あの人のせいなのだ」と言いたいかもしれない。しかしそれは、自分も「あの人」も、宇宙の中の束の間の出来事にすぎず、一体なのだということを忘れた言い分にすぎない。どうせ、80年程度で個体としての命は尽きる。一瞬、寄り集まった藻屑のようなものが解け、宇宙の中にまた漂うだけのこと。「私」も「あの人」もない。

進んで悪魔になる必要はない。

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