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人の命は誰かのものか

私は、私の命を自分で処分していいのか。あなたは、あなたの命をあなた自身で処分していいのか。

人は、死なない。私の肉体的な生命活動が止まっても、私という出来事はなくならない。それは、いわゆる自然死でもそうでない死でも同じこと。自然死という出来事、自然死以外の死という出来事があったというだけのことだ。

自殺を禁じる宗教がある。それをベースとした社会、文化を持つ国がある。

日本、日本人はどうかというと、多くの人が「宗教的に自殺を禁じられている」とは感じていないだろう。どちらかというと「他人に迷惑がかかるから自殺はするべきではない」というのが多いのではないだろうか。

「このままだと死ぬぞ」という状況で、それを避けようとしない場合、それはいわば、「未必の自殺」だ。人は、肉体的にはいずれ死ぬ。それならば、不死の方法を編み出さない限り、すべての人は、日々、未必の自殺へと向かっていることになる。

誰かのために自らの肉体的な命を投げ出す人がいる。戦地や災害の現場でもそうだが、ちょっとした事故でも、そこにいた子どもをかばって自分の命を犠牲にする人はいる。そういう人たちは、生き方を選んだのと同時に、死に方も選んでいる。これを「自殺」と呼ぶことは、人によっては抵抗感があるかもしれないが、自らの意思で自らの肉体的な命の終わりを決めているという点では同じだ。

私は、私の命を自分で処分していいのか。あなたは、あなたの命をあなた自身で処分していいのか。

いいも悪いもない。人は、自らの生き方、死に方を選ぶ。宇宙の中で、どのような出来事を起こすかを選ぶということだ。

「あなたの命は、あなただけのものではない」と言うと、自殺を禁じる方向の話のように聞こえる。

では、「あなたの命は、誰のものでもない」というのはどうか。
誰のものでもなく、あなた自身のものだから、かけがえのないあなたの命なのだから、あなたが思うとおりに精一杯生きなさい、というような意味にとられるだろうか。

しかし本当の意味は、文字通り「誰のものでもない」ということ、つまり「他の誰のものでもないし、あなた自身のものでもない」ということだ。

人は、肉体的には自然死することもあるし、病気や不慮の事故、災害などで死ぬこともある。その中に、自ら命を絶つという形の死もあるということだ。

肉体の生命活動も死も、宇宙の中の出来事であり、すべてつながっている。宇宙は誰のものでもなく、命も誰のものでもない。

私は、自らの心身、魂を整えたいと思う。人の命は、回っている独楽のようなものだ。心身、魂が整うと、安定して回り続けることができる。たまたまこの宇宙の中で、私という出来事が起きたのだから、それを長く安定させてみたい。

理由なんかない。ただ私は、今、そう思っているということだ。

独楽は、回転が弱くなると、だんだんと軸がぶれて不安定になり、しまいには倒れて回転を止める。

生きていて、軸がぶれて不安定になった時、それが辛すぎるなら、自ら回転を止めるというのも宇宙の中の出来事だ。

他方、誰かが不安定になった時、支えたり、力を足したり引いたりして軸を安定させ、回り続けられるようにしてあげられるといい。

何かを禁じる、否定する、肯定するということではない。すべては宇宙の中の出来事だ。

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