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誰かのためにすること

前の記事で、祈るという行為について書いた。「おおいなるもの」を自分の外に置いてそれに対して願ったり頼ったりするということではなく、宇宙の中での儚い出来事である自分と「おおいなるもの」とが一体であることを識ることが肝要ということだ。

前の記事では、「雨が降りますように」というような、人間が制御できそうにない自然現象を例にとった。
では、特定の誰かのために何かを願うこと、たとえば、何かについて努力している人のために、その努力が報われるようにと願うとか、誰かが健康に過ごしてほしいと願う場合はどうか。

その場合も、祈り方は同じ。自分の外に神仏などを措定して、それに対して「どうかその人知を超えたおおいなる力を発動して私の願いを叶えて下さい」というのではない。幸せになってほしいその人に直接、祈りを向けるのだ。

呼び方は「気」でも「想念」でも何でもいい。人は、誰かに対して目に見えない何かを送ることができる。なぜなら、私という存在も、あの人の存在も、宇宙の中での出来事であって、つながっているからだ。

たとえば、不眠で悩んでいる人がいるなら、「どうかあの人の不眠症が治りますように」と神仏に祈るのではなく、まずは自らの心身と魂を整え、それを不眠で悩む人に同調させる。その人に対して、直接、同調するように祈りを向ける。

妊娠中の女性の心身の変化が、お腹の子に影響を与えることは、誰にでもわかる。お腹の子は、母胎とは別の個体になるが、母胎とつながっている。人は、へその緒を切って独立した個体になった後もつながっていて、同調している。母乳を飲んだり、家族と同じものを食べたり、同じ光や空気に囲まれたりしている時間が長ければ、その家族の心身が同じもので構成されていることは比較的わかりやすい。つまり、同調している割合が高いということだ。

同じ空間にいなくても、同調することはできる。血のつながりがあってもなくても、同調することはできる。もちろん、血のつながりがあって同じ空間で長い時間を共に過ごしている方が、同調は自然に起こりやすいが、血のつながりがなくても、別々の空間にいても、もっと言えば相手が生きていてもいなくても、同調はできる。

前にも書いたが、人は死なない。物質的な肉体が見えなくなっても、誰かの記憶の中にとどまって存在している。人は、その存在と、同調することができる。それを「魂」と呼ぶか「仏」と呼ぶかは大きな問題ではない。自らの心身を整えて、宇宙の中での出来事である私が、同じく宇宙の中での出来事である誰かと同調するということだ。つながっていることは確かなのだから、あとは意識して伝わるようにするだけだ。

その人の姿、声、匂い、温もりを思い、幸せを願う。笑顔でいてほしい、健やかにいてほしいという想いを、神仏に願い頼るのではなく、直接相手に送る。自分も相手も「おおいなるもの」の中にあるのだから、必ずつながっているし、伝わる。

その意味では、人は超能力を持っている。誰もが持っているので、「超」能力ではなく、ノーマルな力なのだが、多くの人がその力のことを忘れている。忘れているどころか、「変な宗教にはまっている」とか「スピリチュアルにはまってワケのわからないことを言っている」とか中傷してくる人もいる。だから私も、ひっそりとnoteを書いたりはするものの、あまり他人にこういう話はしないでいる。


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