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愛すること、感応すること

「愛する」という語では言い表しつくせないことがある。この語を使うと、どうしても「愛する」対象を外部に措定して、「〇〇を愛する」という形にせざるを得ないからだ。

言挙げすることで、かえって本質から遠ざかってしまうことがある。実生活では「言ってくれなきゃわからない」ということもあるが、「言ってしまうからわからない」ということもあるということだ。

そもそも、私もあなたもあの人も、宇宙の中で生じた出来事であって、一体でつながっている。「つながっている」と言うと、別々のものが関連づけられているように聞こえて正確な意味合いではない。別々ではなく、「一体である」としか言いようがない。

愛を確認するために言葉をかけるというのは、身体をもって現世をともに生きる刹那、できることにすぎない。できることは、それが良いことならやった方がいい。だから、愛情を言葉で表現するというのも、一つの方策としてしたらいいと思う。

しかしたとえば、言葉を発することができない人は愛情を伝えることができないかというと、そうではない。言葉や姿形で表現することができなくても、愛情を伝えることはできる。言葉を話せないペットの犬や猫との間に愛情を伝え合っている実感を持っている人は多いだろう。言葉は一つの方策にすぎない。

愛情の伝え方は、「祈り方」と基本的に同じだ。

誰かのために祈るとき、自分と相手の外に神仏などのおおいなるものを措定して、そのおおいなるものに対して祈るのではなく、おおいなるものがあることを識り、それが自らと一体であることを識り、相手に直接祈りを向けて同調する。

愛情も、伝えたい相手を思い、直接感応するように働きかける。もともと一体なのだから、相手を自分とは切り離されたものと措定する必要がなく、同調、感応するようにすればいい。

愛する人の笑顔、声、匂い、温もりを思い浮かべることで、その人と一体であることを思い出す。そして、一体であるその人に、愛情や感謝を送る。「想念」と呼んでも「気」と呼んでもいい。自らを整え、相手と同調する。

わかりやすいのは、「スキンシップで幸せホルモンのオキシトシンが分泌されているとき」のことを思い浮かべて、それを愛する相手に振り向けることだ。実際にスキンシップをしている瞬間でなくても、その時のことを思い浮かべて幸せを感じることはできる。それを、愛する人に振り向ける。愛する人も同じように幸せを感じるようにする。

それは、相手が目の前にいなくても、眠っていても、極端なことを言えば現世で生きていなくてもできる。

恋人や夫婦の間の愛情の伝え方は、性愛にも関係している。相手と愛情によって結ばれている場合、性行為での感応は、相手と同調して愛情を伝え合うことを容易にする。その感応は、実際の性行為で身体的な快楽を感じている間だけでなく、いつでも相手と同調できるようになるための回路を強化する。

逆に言えば、相手と愛情によって結ばれていない性行為は、一時の身体的な快楽を得るだけで、誰かと同調して幸せを感じるところへは到達しない。お互いにそれでもいいと割り切ってするなら、現世における快楽を味わえばいい。そうでないなら、身体的な快楽が愛情へとつながっていないという欠落感に押し潰されることがあるので、お勧めしない。

性愛については、別の機会に詳しく述べる。ここに書いたのは、愛情一般についてのことだ。以前にも書いたとおり、誰かのためにすること、その誰かと自分が一体であることを識ることで、愛する対象を外部に措定するのではなく、感応、同調することで伝えるということだ。

言葉は一つの方策に過ぎず、必ずしも必要ではないということを、このように言葉で書き綴る滑稽を繰り返している。不立文字という文字を書くという人類の伝統芸である。

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