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ライティングスクール課題集

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#小説

緊張と喝采のはざまで

緊張と喝采のはざまで

"さあ、本番だ"

コンサート開演前。僕はステージ袖で待機しながら、みんなと他愛もない話をするほんの数分間が好きだった。緊張とリラックスの境目がよく分からない数分間。一方、お客さんとステージに乗る僕たちとの境目はまだはっきりしている。開演を待つお客さんはというと、どんな演奏が聴けるのだろうか?という期待感を持っている人もいれば、全く興味がないのに何かの縁でここに居る人もいるだろう。そんな絵の具のよ

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黒猫ものがたり

黒猫ものがたり

アタシはここ最近の記憶がない。ご飯も誰かが用意してくれていた気がするけど、ある日突然食べる術を失った。けれど、大きな手でアタシの頭をわしゃわしゃ撫でてもらった温かい記憶だけは残っていた。またあの温かい手の感触に包まれたいなぁ…。アタシは何かを求めて住宅街のマンションの吹き抜け広場に毎晩通うようになっていた。

ここには色んな猫たちが集まっていた。野良猫の道を歩むもの、飼い猫として自分の家を持つもの

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遠くの、誰かの声

遠くの、誰かの声

ワンルームに、時報が響く。

皆さんこんばんはぁ!
さあ、今日もやってまいりました、私DJヒビィがお送りするラジオ番組「響け!ハーモニーナイト☆」の時間でーす!

派手な音楽と同時に、やたらとトーンの高い男の声が、静かで雑然とした部屋に場違いに響いた。
毎週同じ曜日・同じ時間に聞いているラジオ番組は、特にお気に入りというわけでも無く、この部屋に引っ越してきた頃からずっと、何となく寝る前に聴くことが

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恋人に肩の毛をあげた話

恋人に肩の毛をあげた話

泣いたのは3度だけ物心がついてから、人前で涙を流したことは3度しかない。

元来感情の起伏が少ない質(たち)だったし、何より他人の前で感情を見せることは恥ずかしいという感覚がどこかにあったのだと思う。今もそうだ。

3回の涙は、どれもネガティブな出来事の中で流れたものだったので、あまり他人に話したことはない。例えば最初の涙は人の死に関わるものだった。3度目の涙は、別れに関するものだった。

それ

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『救われない』ってわかってるからこそ、『救い』を切望する私たちについて。

『救われない』ってわかってるからこそ、『救い』を切望する私たちについて。

「やあ、最近元気?」2014年3月末日、総武各駅停車が徐行運転をするほど風が吹き荒れる日曜日の18時。JR御茶ノ水駅前のHUBの、スピーカー直下のテーブル席にて。 私は3か月と8日ぶりに会う青年に向かって声を放つ。そして、日用品がたっぷり入るほど大きいヴィヴィアンウエストウッドのトートバッグの中に手を突っ込み、アメリカンスピリット1㎎のオレンジの箱と蛍光緑のライターを探りだす。

「元気じゃない

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台所の哺乳瓶

台所の哺乳瓶

一度失った信用を取り戻すのは容易ではない。

信用を構築するのは大変なことで、しかし、それはほんの些細なことで壊れてしまう。ビジネスの話ではよく聞く話だ。私たちビジネスパーソンは信用に足る人物になるべく、日々精進すべき。商売を始めたての私は張り切っていた。

裏で呼び鈴が鳴っている。陽二が乳を欲しがっているのだ。そろそろ来る頃だ、と私も思っていた。だけど、ちょうどピザの注文が入って、手が離せない。

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水の発言

水の発言

音を立ててパイプ椅子から立ち上がっての第一声は意外に印象の薄い声だった。

「こんにちは、初めまして。水と申します。あ、みなさんもうご存知ですよね。だから初めましてっていうのも変なんですけど...」

周囲がもう少し驚くと思っていたのかも知れない。それに反して多分、思ったような反応ではなかったのだろう、水はちょっと恥ずかしそうに下を向いた。

「いま、私はみなさんとお話をするためにこのかたちをして

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