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緊張と喝采のはざまで

"さあ、本番だ"

コンサート開演前。僕はステージ袖で待機しながら、みんなと他愛もない話をするほんの数分間が好きだった。緊張とリラックスの境目がよく分からない数分間。一方、お客さんとステージに乗る僕たちとの境目はまだはっきりしている。開演を待つお客さんはというと、どんな演奏が聴けるのだろうか?という期待感を持っている人もいれば、全く興味がないのに何かの縁でここに居る人もいるだろう。そんな絵の具のように色々な気持ちがごちゃ混ぜになったパレットのような空間であるホールを、僕たちの演奏で一体にしてしまう瞬間がある。音楽には不思議な力があるんだ、僕はそう信じた。

僕はこの瞬間を味わうために、社会に出てからも音楽を続けている。

………

「本当に何でもいい?」

「はい、何でもいいです」

高校の時、入部にあたって吹奏楽部の顧問と面談したときの会話だ。こうして僕はトロンボーンという楽器と巡り合った。「たぶん、初心者だったらパーカッションあたりになるんじゃないかな」そんな言葉をかけられ、友達に誘われるままなんとなく入部したら、これだ。初心者で管楽器って…。おいおい、ついていけるのか?

いざ始めてみると、まあまあ面白かった。というより、上手い先輩や同期に引っ張られて自分も上達したのかもしれない。小、中学校から楽器を続けている仲間にはひいき目抜きに天才的に上手いのがいた。トランペットのカッちゃんがそうだ。カッちゃんには中学から一緒にいる彼女がいた。アルトサックスのノリコだ。ノリコのサックスは柔らかくて深みのある音だった。県の吹奏楽コンクールで金賞を取った中学で部長と副部長だった2人は、当然高校でも活躍することになる。

僕ら3人は列車通学だったこともあって、一緒にいる時間が長かった。駅のハンバーガーショップで駄弁りながら時間をつぶすのが僕らの練習後のルーティンだった。1時間に1本列車があるかないかの田舎だから、部活の終了時間は列車の時刻を考慮されていた。大会やコンサート前の準備が立て込む時期になると最終列車になることも多かった。けど、帰りが遅くなること自体は嫌いじゃなく、むしろワクワクした。最終列車で帰るという言葉の響きがカッコよくてなんだか大人になった気がしたし、なにより長い待ち時間、駅のホームで夜空を見上げながら、3人でああでもないこうでもない話をするのが好きだった。楽器が上手い先輩の話、指揮棒を振っている先輩が自分の世界に入りすぎて変な顔をしていて笑いそうになった話、好きな曲の話、自分たちが上級生になったら演奏したい曲についてカッちゃんが持っていたiPodで聴きながら話し合ったり・・・。アレグロで16分音符ばっかりの速さや技術を問われる曲は木管楽器だと指が回らないとか、金管楽器だとタンギングができなくて大変だとか、練習の愚痴も自然とこぼれた。だけど、練習は何も楽器がなくてもできるのだ。僕らはそれぞれ自分が担当する旋律を歌う、いわゆる口合奏をよくしていた。ちょっと油断するとカッちゃんから出だしがそろわない、リズム感が悪いとダメ出しをくらった。後から考えると、この口合奏が意外とよい練習になった気がした。

リアルの練習と、帰り道での口合奏やアツく音楽を語る時間を積み重ねた僕らは順調に進級して3年生になった。卒業した先輩たちからは、「カッちゃんたちの学年はみんなうまいからコンクールで金賞取れるんじゃない?」と期待された。カッちゃんは学生指揮者、ノリコはインスペクターといって練習の出欠確認や、コンサートまでの練習スケジュールを作ったりするいわば現場マネージャーのような役についた。僕はというと、小学生のころから学級委員だの、班長だの役回りをさせられる体質だったのがここでも災いして部長になってしまった。でも、部長なんてみんなの前であいさつするぐらいの飾りものだから僕で充分だろうと思った。僕が担当するトロンボーンという楽器は低音楽器に属する、いわば音楽を支える土台のようなポジションだ。中でも一番低い音を出すバストロンボーンという楽器を、僕は先輩達が抜けてから演奏するようになった。部長というポジションでみんなを支えるってある意味僕らしいのかもな、と思った。一番大変なのはノリコだった。たかだか出欠確認といっても音楽の場合は楽器がそろわないと予定された練習が出来ないことがある。スケジュールにしたって、曲の仕上がりが遅ければ追加で練習することを考えて調整しなくてはいけない。人の先頭に立つって大変なことだ、とつくづく思った。

毎年、6月のコンサートはその年のコンクールで挑戦する課題曲を演奏することになっていた。課題曲はいつもAからDまであって、今年は中間部にサックスのソロパートがあるという理由でBを選んだ。曲もカッコイイし、ノリコの音で勝負できるのでは?という意見が多かったからだ。僕たちは練習に練習を積み重ねた。練習するために高校に通って、そのついでに教室で授業をうけるような生活を送っていた。それでも、3年生だから進路を決める必要があった。僕は地元の国立大学の医学部、音楽教師を目指すカッちゃんは同じ大学の教育学部、保母さんを目指すノリコは短大志望だった。

ところが、だ。
ある朝、カッちゃんが東京の音大を受験したい、と音楽室で顧問の先生に相談しているところを僕は目撃してしまった。

「作曲とかアレンジやりたくてさ」
「まぁ、いつか話さなきゃならないことだし」

放課後の練習前、カッちゃんから直接話を聞かせてもらった。カッちゃんは、子供のころからピアノを習っていたこと、そのきっかけはゲーム音楽だったこと、いつか自分でゲーム音楽を作って子ども達を喜ばせたい、という気持ちがあったこと、作曲科に進んでも音楽教師を目指すことが可能であること・・・いろんな事を話してくれた。実際、カッちゃんレベルなら音大を受けてもおかしくない、むしろ受けた方がいいように思った。

「ノリコは、なんて言ってる?」

「応援するって」

「そっかぁ」

「でもさぁ、あいつ今調子悪いよね」

・・・あ、そういうことだったのか?

調子が悪いというのはサックスの音のことだ。楽器というものは音楽を奏でるための道具に過ぎないのに、音というものは不思議なもので、奏でる人の個性、体調、感情がダイレクトに現れる。たしかにこの頃のノリコは、音の出だしを間違えたり、木管楽器特有のリードミスという意図しない高音が出たり、明らかに何かおかしかった。

「俺のせいで、ノリコの音がノリコらしくなくなってるのかな」

その時、だ。
「カッちゃん、それ自意識過剰っていうんだよ」
ノリコが自然な流れで会話に入ってきた。

「リードを新しくしたばかりだから、まだ慣れなくて」
「ワタシなら大丈夫だから」
「身近な人が音大に進学するなんて、考えると楽しいじゃない」

「でも」
「ありがとね」
「さ、練習練習」

サックスはマウスピースに葦のような木材で作られたリードを装着し、これを振動させることで音が鳴る。リードは消耗品でありながらも楽器の心臓とも言える大事なパーツだ。実際、ノリコぐらいの腕があるプレイヤーが、リードを新しくしたぐらいで調子を崩すことは多くないように思う。だから、彼女なりに悩み苦しんだのは本当なんだろう。

この日の合奏練習は、カッちゃんの指揮も乗りが良く、皆がそれにひっぱられて勢いのある、楽しい演奏になった。顧問の先生が指揮してくれた課題曲Bも、今までで一番の演奏だったように思う。
「みんな今日は上手いねぇ」
先生も嬉しそうだった。もちろん、課題曲Bのサックスパートのソロは言うまでもなく素晴らしかった。
僕ら3人の帰り道もいつもと変わらず、今日の練習の振り返りや、まもなく迎えるコンサートの準備についてあれこれ話をしながら駅のホームで時間を潰した。

僕ら3人の関係性に半音ぐらいのズレが生じるのか?一度は不安になったけど、大丈夫みたいだ。綺麗な和音のままだ。

もう、コンサートまであまり日が残っていない。けど、今の雰囲気そのままなら良いステージを作れそうだ。高校3年生で迎えるコンサートは、どんな人たちが聴いてくれるのだろうか?あ、僕には部長挨拶の文章を考える宿題があったんだ。

「本日はご来場いただきありがとうございます。みんなで作る音楽は、まるで生き物のようです。育ち盛りの子供のようにどんどん成長していきます。そして、僕たちが新しい曲の楽譜を手にしてから、本番前の緊張を乗り越えてステージに向かうまでの物語があります。僕たちのコンサートは、その物語のクライマックスかもしれません。コンサートは、みなさんの前で大事に育てた音楽をお披露目する場です。僕たちにとって宝物のような音楽が、みなさんの心に届くことを願いながら演奏したいと思います。」

部長の大仕事はこんな感じでいこうかな。

僕たちは"音楽"という字の通り、お客さんを巻き込んで音を楽しむまでだ。その瞬間を楽しもう。

"さぁ、本番だ"

#小説 #青春   #音楽 #音を聴いて浮かんだイメージから着想した作品


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