「ゴッホの手紙」小林秀雄 若かりし頃、「アート」と「芸術」の違和感を抱きながら出会ったゴッホの苦悩。小林秀雄が導く狂おしく痛ましいほどの天才は、経年するほどに輝かしい。
夜中に何度か起きる母に合わせて、わたしも何度か起きる。昨夜のゆず湯のせいか、深く眠れた。明け方前に起きたとき、ついでに着替え、コーヒーをいれ、読み差しの資料に目を通す。ニューネン時代のゴッホの手紙もいくつか。鳥が鳴き始めるまで夜明け前のひととき。ひとりだけの時間を味わう。
雨が降り涼しくなった。駅ビルの図書館コーナーでゴッホ書簡集を返した帰り、雑貨屋の店先に突然ゴッホグッズがこれでもかと並んでいる。星月夜のクッキー、ひまわりのポーチ、コットンバッグ、自画像のキーホルダー等々。地元ではチャーリーブラウン並みの人気なのか、秋物入荷なのか。不思議。
昨日あきらめたところから資料に目を通す。大丈夫。なんとか読める。夢からさめた。またあの長い手紙を読むと夢のなかへ入っていくのか。やっぱり気になる。たまたま開いた頁。今日はここまでにしようとゴッホが書いている。栞挟んで休みなさいと言われた気がする。まだ暑い。暖冬になるらしい。
読みかけの資料をそこそこにゴッホの手紙。画集を開く。この絵をどう書き送っているのだろう。手紙を探す。今日はパリで花を描き、色彩の研究を進めているあたり。綿々と長い。はたとわれに返り、資料に舞い戻るも切り替えできずじまい。あきらめて余韻がひろがる。夕食の茄子は秋の味。
茗荷ひとつ庭で初収穫。まだ小さい。刻んでシャリシャリ。母に半分あげる。シャリシャリ。二噛みくらいでおわり。じわっと採れたての味。一瞬顔がほころぶ。母は最近元気になったようだ。わたしはゴッホの手紙をぼちぼち読んでいる。今日はじゃがいもを食べる人々のあたり。