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自分から始める

2023年になりました。みなさま今年もよろしくお願いします。

昨年は、世相を見るといろいろひどいことがあったな、、、悪い方向への時代の区切りとなるかもしれない、そんな出来事がありました。

自分がやれることは何かな?って思うと、ちゃんと時代や社会を見つめつつ、考えを持ちつつ、その中でも手の届く範囲で、よりよくしたいって思います。
そのために今取り組んでいることの土壌を豊かにし、タネを蒔く、そんな一年にしたいなって思います。

みなさまにとって、良い年になりますように。

さて、今日は、とらさんとゆこさんの年始の発信を受けて、僕なりに「自分から始めよう」ってところを整理してみたいと思います。


「支援」や「育てる」という言葉が持つ暴力性


組織で責任ある立場になると、上司とか政治家とか経営者になると、あるいは学校の先生や福祉の支援者になると、そして親になると、「誰かに指示を出すことで他者(人々や部下や子ども)を動かす」ということの必要に迫られます。
人はそれをリーダーと呼びますが、言い方を変えると「権力者」です。

教育や福祉の仕事に就くと、あるいは親にこのように言うと、最初は「権力者だなんて、そんな、、」あるいは「リーダーって柄じゃないっス」って思うのではないでしょうか。
特に教育や福祉の人ってケアのマインドを持っている人が多いから、そういう感覚が強い傾向があるようにみえる。
でも、ちょっと立ち止まって考えたいですね。無自覚な「リーダーって柄じゃないっす」って考えは危ないから。

支援者・教育者・親、すでにその時点で、権力者なんです。それに無自覚ってどう言うことかって言うと、「立場が持つ避けようがない権力性に対しての無自覚さ」なのです。
言い直すと「相手をコントロールできる立場にある人がふるってしまうかもしれない暴力的な振る舞いに対する無自覚さ」です。
支援する側に立つ、あるいは指示する側に立つだけでどうしても権力性は孕んでしまう。そこに無自覚になると、「リーダーって柄ではないっす」って言いながら、権力を振るい、そして知らず知らずのうちに暴力的な振る舞いをしてしまう。

この無自覚性が暴力的な指導・支援や子育てへの無自覚さにつながる、、、今回はそんな話をします。

(ここで「自戒を込めて」って枕詞を使いますね、自戒を込めて、、、書いています)


他者をコントロールしたいっていう欲望


うまくいっていない(あるいは表面的にしかうまくいっていない)、会社・学級・家庭・夫婦を見ると、その根っこになるのは大抵は過剰なコントロール(過干渉)か丸投げ(放任)です。あるいは、そうしてきたツケを支払う最中で大変な状況になっている。
過剰なコントロールっていうのは、権力を持つ側(上司や大人)が「思うように相手を変えよう」として、相手をまるで粘土をこねるかのように動かそうとしているってことです。

僕は親でもあり、人を支援する立場であり、会社を運営する立場でもあるので、そういう気持ちになることは多々あります。気づかずそうなっている時もあります。

人の権力欲は舐めない方がいいって思います。「自分は権力欲ないっす」なんて思っちゃダメです。誰もが持っている。
僕達が相手に「〇〇させたい!」って思った瞬間に、それは権力欲
です。
親が子供に「勉強させたい」って思った瞬間に権力欲がムクムクと起きあがっているのではないかな?って思った方がいいのです。

確かに、子どもに「勉強しなさい!」って言ったときに、もしかしたら子どもは「ハッ」とするかもしれません。
「僕がバカだった!勉強しないでYOU TUBEばかり見てた!!お父さん、気づかせてくれてありがとう!!」…そんな息子だったら苦労しないのですが笑、大概はそうはならない。
大抵の場合、返ってくる言葉は、「わかっているよ!」「今やろうと思ってたのに!」「この動画見てから!!」って感じではないかと。

ここで相手を無理やり机に向かわせたり、勉強するまで叱り続けたりするならば、これは権力の行使であり、暴力性を持った関わりです。
こうやって他者をコントロールしようとしてくうちに、相手は反発する(コントロールされ続けるのは嫌だって思う)し、そのようなやりとりをしていけば、「あいつは変わってくれない!」「あいつは間違っている!」「あいつが悪い!」ってなっていきますよね。そしてモヤモヤして、また怒って、自分も周りも不幸になっていく。
ああ、、、自分で書いていて耳が痛いぜ。

教育者・支援者がそう言う意味での「支援者」になるとうまくいかない。「誰かを変えること」が前提にしてしまっている。
こういう上から目線で「やってあげる」っていう考えや振る舞いのことをパターナリズムって言います。政治や組織、福祉や教育、家庭、、、日本全体に蔓延る病だと思います。


でも制度や世間は成果(≒コントロール)を求めてくる


一方で、教育者や支援者って「変えること」が前提にされる。
制度の中におかれるとなおさら「成果」が求められる
。公費が出ているわけだから。
「成果≒他者を変える≒コントロール」です。
教育で言えば、学力テストの結果だったり、福祉で言えば、障がいのある方が「より良い方向に訓練されること」だったり。そのために勉強させるなり訓練させるなりしないとならない。

そもそも他者をコネコネして変えるのはそもそも不可能だし、やっちゃいけないのに、でも、変えることを求められているわけです。
常にこの矛盾とともにあるのが僕達の仕事です。でもこの矛盾とともに常にあるのが、そこに自覚的になるのが、とても大事だと思うんです。
ヒントになる概念がアドラーの個人心理学の「課題の分離」って概念でした。


アドラーの「課題の分離」が与えてくれた気づき


アドラーの『嫌われる勇気』って本が大いに流行ったけども、この本で強調されていたのは「課題の分離」でした。
これはおそらくアドラーの思想の中核ではないのですが、日本の会社や家族を見渡したときに作者の岸見一郎氏は「これが大事だ」って思ったんでしょう(たぶん)。

課題の分離っていうのは、「相手が変わるかどうかは相手が決めることでコントロールできない。逆にコントロールしようとするとうまくいかないよ。だとしたら、まず相手の課題と自分の課題を分けましょう」…そんな考えです。

僕はこの本を読んで、衝撃を受けたんです。
塾の講師としての僕は、「勉強させたい」「成果を出してほしい」っていう自分の課題を、相手に押し付けてしまっていた! 相手の課題と自分の課題を混在させてしまった!って。これは「コントロールしたい」ってことであり、相手の心に土足で入り込む暴力的な振る舞いだったんだって。それを受けて「今まで間違っていた!」って思い、大変なショックを受けたんです、、、!!

だから常に胸に刻む言葉です。課題の分離!


「課題の分離」って概念が持つ危うさ


でもこの言葉に僕は一抹の危なさも感じる。
「結局自分が悪いんでしょ?あーそうですか、そうですわ!!」って受け取ってしまう可能性があるから。

なんというか、ストイックと言うか、マッチョな感じもします。
根性論とか精神論として、受け取ることもできます。他者に対する精神論、、、これもできれば距離を取りたい姿勢です。

課題の分離の概念って、重要であると同時に危ない面もあるのではないかと。

実際生きていると「誰かのせい」にしないとやってられないこともありますよね。

自分の意思とは関係なく大変な状況に置かれてしまうことだってある。
親にこのように育てられたとか、そういう時代だったとか大変な社会的状況だったとかね。
世界には、社会には、相変わらず不条理がたくさんあります。
とっても身近なところで、、、あります、、、。

その不条理には憤りを感じていいし、自分が置かれた状況があまりに不公正だったら怒っていいって思うんです。
あるいは、誰かがそのような不条理に陥っていたら、一緒に憤ればいいと思う。そうしないとその人と一緒に歩けないかもしれないから。
その憤りをちゃんと受け取れる社会だったらいい(残念ながら、まだまだそうなっていないけど)。

その憤りから何かが動いて、変わるものもあるでしょう。

でも、やっぱりそこで人は間違いを犯す。相手をコネコネしようとする。無自覚にパターナルになる。

それにハッと気づければいい。そこから「自分が変えられることに集中」すればいい。僕はそう思っています。


「まずは自分から」も、「状況や環境の対する憤り」も。


「他者は変わらない。自分から変わろうぜ」、、、って言われても「そんなこと言われても納得いかない!」って思う人もいると思うんです。
そもそも「自分から変わろうぜ」って言葉自体が「お前が変われ」って言われているようですしね。
そう言う時は、大変な状況にいる自分や、それを乗り越えた自分に寄り添う必要があると思うんです。家族や学校や組織や社会がもしかしたらあなたに何かやらかしたのかもしれません。怒っていいと思う。そして、それを生き延びた自分に寄り添えるなら、寄り添ってほしいし、それが難しいなら誰かが寄り添える社会だったらいいなって思う。
さらに社会や環境が間違った状況にあるならばなにかしらの変化にコミットすることは大事かもしれない。


小さな自分のことから始める、小さなことをしている自分を承認する


ただ既述の通り「誰かのせい」にし続けたところでうまくいかないことが多い。
不幸の再生産ってことだってあり得る。
自分がある種の権力を持ってしまえばなおさらです。

だから「自分が変えられるもの」に注力する。それは自分のことからスタートです。ほんの数ミリの変化、半歩の前進でもいい。そしてその数ミリを、半歩をもって自分を十分に認める。

その半歩とは何か?
とらさんが言うように、まずは自分の体を整えるってこと、運動するってことかもしれないですね。運動は不安解消にいいし、脳にもいいみたいだし、気持ちが整います。
自分の実感としてもそうですが、さまざまな研究があるみたいです。よかったら『運動脳』って本を読んでみてください。

ゆこさんがいうように、ベクトルを自分に向けるってことでもいいかもしれない。頑張っている自分を認めたり、よりよくしようとしている自分に気づいたり。
たとえば、「勉強しなさい!」って言葉は暴力的になり得るけど、「勉強して将来幸せになってほしい」って思いはとても大事なものです。その思い自体は否定せずしっかり認めるってことは大事です。


では、今年もよろしくお願いします。

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