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短編小説「麻子とアキ 第二話 詐欺師」(4)

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 ぼくのスマホにポンちゃんから着信があったのは日曜日の午前十時。ぼくと麻子が遅めの朝食を取ろうと出かける寸前のことだった。ポンちゃんは押し殺した声でボソボソとしゃべる。どうやらトイレかどこか、狭い室内にいるみたいでただでさえ小声で聞き取り辛いのに、それが反響してなお聞きにくい。ぼくはスマホを顔に貼り付けるみたいにしてポンちゃんの話を聞き取った。
〈央太さん、ヤバイよ。エーちゃんが乗り込んできちゃった〉
 開口一番にそう言う。くぐもって低い声だ。
「ポンちゃん? 何、どうしたの? どういうこと?」
〈だから、エーちゃんが事務所に乗り込んできたのよ。今、うちの店長と掛け合ってるの〉
「え? 何それ?」
〈知らないわよ。エーちゃん怒ってるみたいで、さっきちょっとだけ私顔出したんだけど、店長に私を辞めさせるように言ってるみたい。店長切れる寸前だった〉
「何でエーちゃんがそんなこと」
〈だから知らないって言ってるでしょ。私、トイレって言って抜けてきたからそろそろ戻らないといけないの。それでここからは相談なんだけど〉
「なに」
〈すぐ来てくれない? 結構本気でピンチなのよ。エーちゃん無傷じゃ済まないと思う〉
 ポンちゃんの声が焦っている。
〈事務所の場所は麻子が知ってるからさ。ね、お願い〉
 強気に言ってるつもりなのかもしれなかったけど、ポンちゃんの言葉尻は震えていた。
「わかった。行くよ」
 事情を説明しようと麻子を振り向くと、ぼくの表情の変化と会話の断片で察したのか、麻子がコクリと肯いた。

   ❃

 初めて足を踏み入れた宝石の展示場は、まだ午前中のせいか人影がほとんどなくて、テレビのロケ現場みたいだった。宝石の棚を斜め上から黄色い光で照らすライト。棚ごとに設えられたそれが白々しい。ぼくと麻子は展示場を奥へと走った。案内があったわけじゃないけど、エーちゃんの声が聞こえてきたからだ。エーちゃんの中途半端に高い声が、壁に反響して断続的に響いている。
「もう、エーちゃんやめてよ! 私、無理に働かされてるわけじゃないんだよ。店長も会社も悪くないの。私が勝手にやってるの!」
 ポンちゃんの金切り声が聞こえる。
「そんなはずないよ! 杏子ちゃんは騙されてるんだ。杏子ちゃん、素直ないい子だから、だからこいつら悪党につけ込まれたんだよ。今ぼくが救い出してあげるからね!」
 当然聞こえてくるはずの第三者、店長の声が聞こえてこなかった。エーちゃんとポンちゃんの声ばかりだ。
「ね、店長、この人ちょっとおかしいのよ。私からキツく言っとくからさ、今日はこの辺で」
「ダメだよ杏子ちゃん! ぼくは今日、杏子ちゃんを連れて帰るって決めたんだ。絶対この悪党から君を助け出してみせるよ!」
 展示場の奥に小部屋があった。言い争う声はその小部屋から聞こえてくる。ぼくはドアの前に立って麻子を見た。麻子もぼくを見ている。同時にうなずく。
「ああ、もういいや。ちょっとあんた、一緒にこいよ」
 ノブを捻ろうという瞬間に新しい声が聞こえた。低く、低いけどくぐもらずに迫力を持って響く声。部屋の中が一瞬だけ静かになった。
「何をする!」
 次の瞬間にエーちゃんの悲鳴とも怒号ともとれる声が響いた。ノブを握ったぼくの腕がギュッと締まる。
「ちょ、ちょっと店長、どこ連れてくのよ」
「放せ! ぼくは暴力には屈しないぞ!」
「あー、うるせえ。クレームにはきちんと対応するのがウチの流儀なんだよ」
 生のヘチマを捻り切ったような音がした。続いてポンちゃんの悲鳴。
「店長! お願い、許してやってよ。こいつバカだから何にもわかってないのよ」
「アキさん」
 ドアノブを握ったぼくの右手を麻子が自分の両手で包み込んだ。ぼくは正気を取り戻し、そのままの勢いでドアを引き開けた。薄っぺらで安っぽい木製のドアはほとんど音も立てずに簡単に開く。部屋の空気が一瞬だけ固まった。
「麻子! 央太さん!」
 ポンちゃんがぼくと麻子を認めて叫んだ。ポンちゃんの目の前には背中にくっつけるように腕を捻り上げられたエーちゃん。エーちゃんの歪んだ顔に脂汗が浮いている。エーちゃんの腕を前衛芸術みたいに捻り上げている男が店長だ。年のころ三十代半ば、精悍な顔付きとよく日焼けした肌を持った青年実業家の態をもった男だ。
「おい、何だこいつらは」
 男がポンちゃんに目を落として無機質な声で言った。ポンちゃんはぼくと麻子、それにエーちゃんを順番に見ながら答えに詰まっている。エーちゃんが痛みに顔を歪めながら、それでも必死に笑顔を作ってポンちゃんを見た。
「杏子ちゃん。大丈夫だよ。ぼく、杏子ちゃんを守るからね」
 エーちゃんがそう言った瞬間、男がさらにエーちゃんの腕を捩じ上げた。痛みに耐えかねてエーちゃんの体がはね上がる。そこに店長が蹴りを入れた。腹を蹴られたエーちゃんは体を折って咳き込もうとするけど男に腕をつかまれているからそれもできない。エーちゃんの唇の端っこから半透明のよだれが一筋垂れて床に落ちた。
「エーちゃん先生!」
 ポンちゃんが叫んだ。麻子が息を飲むのがわかった。何かを確認するように、一瞬だけぼくを見る。
「先生!」
 溜め込んだ息を吐くみたいにして麻子が叫んだ。
「先生! 踏み込み過ぎですよ!」
 もう一度麻子がくり返したときに気がついた。
 これが麻子の策だ。エーちゃんの「先生」の肩書き。それを使って、麻子はエーちゃんを弁護士に仕立て上げようとしているんだ。
 覚悟を決めて、ぼくは麻子と同じように叫んだ。
「先生! 調査に行くならどうして同伴させてくれなかったんですか!」
 言いながら汗が吹き出してくる。とんでもなくリスキーだ。リスキーすぎる。でもエーちゃんを救うため。ここは麻子の賭けに乗るしかない。
 男の表情に明らかに警戒の色が浮かんだ。視線を落として店長がエーちゃんを見る。
「あんた、弁護士か」
 良し。エーちゃん、ここだ。ここでかますんだ。弁護士だと言ってくれ。デート商法の調査のために潜入した弁護士だと店長に思わせるんだ。
「ぼ、ぼくは」
 言え。エーちゃん。
「そうよ! 弁護士よ!」
 予想外の声が響いた。ポンちゃんだ。ポンちゃんが顔を真っ赤にして、エーちゃんの声を掻き消すほどの大声を出していた。強面の店長をキッと睨みつけている。
「当然でしょ? この案件での私の売上見た? 二百万オーバーよ。その辺の普通の会社員にそんなお金出せるわけないじゃない。バカじゃないの? 今の今まで気づかないなんてさ!」
 店長がポンちゃんを見てから、首を折り曲げて胸元のエーちゃんを見た。またポンちゃんを向く。
「囮調査だったってことか」
 男が冷たい目でポンちゃんを見ている。ポンちゃんは負けじと胸を張って店長を睨みつけているけど、その背中が小刻みに震えている。
「そうよ! だから私、この人に酷いことするなって言ったのよ。あんたわかってんの? お店にきたお客の腕捻り上げてるのよ。今」
 言われて気づいたのか、店長が舌打ちと一緒に乱暴にエーちゃんの腕を放り出した。支えを失って、エーちゃんがぐしゃりと床に倒れ込む。
「何で言わなかった」
「言うなって言われてたの。あんたのせいで私だって追い詰められてるんだから! どこのどいつが『私は弁護士でデート商法の証拠集めにきたので、ちょっと酷く扱ってください』なんて言うのよ。このアホ! アホ店長!」
 ポンちゃんがぐいと体を前のめりにしている。肩がプルプル震えている。店長が探るような目でじっとポンちゃんを見つめている。
 永遠みたいな数秒が過ぎた。
「チッ」
 店長の舌打ちが響いた。
「——今のは俺の手習いの整体術だ。うちは何もおかしな商売はしちゃいない。勘違いしてもらっちゃ困る。おまえからきちんと説明しておけ」
 無表情でそれだけ言うと、店長は床に転がったままのエーちゃんを跨いで、ぼくらの横を通ってドアに向かった。部屋を出る間際にポンちゃんを振り返って言う。
「今日中に精算処理しとけ。二度と来るな」
 ポンちゃんの返事を待たずにドアが閉じられた。エーちゃんは床に転がったまま憎々しげな目をもう見えない店長の背中に向けている。
 ポンちゃんは眉を吊り上げて黙ったまま、ぐっと両手を固く握り締めていた。

   ❃

 事務所を出た途端にポンちゃんはエーちゃんの頭を掴んで、上から下に思い切り引っ叩いた。
「このバカ! 店長が引かなかったらどうするつもりだったのよ!」
 エーちゃんはまだ半泣きだ。
「だってさ、杏子ちゃんを助けなきゃいけないと思って」
「バカ! 世の中ね、あんたみたいな能天気なヤツばっかじゃないのよ。あんたの想像をはるかに超えて何でもするヤツがいくらでもいるんだから!」
「だけど、杏子ちゃんが可哀想で」
「今の私こそ可哀想よ」
 言うと、ポンちゃんは大袈裟に頭を抱えて苦悶のポーズを作って見せた。
「もうここにいられなくなっちゃったじゃない。折角好条件の職場だったのにぃ」
 ぼくと麻子、それにポンちゃんが見つめるなか、エーちゃんがよだれと汗に濡れた顔を上げて、ニッと笑った。
「ぼくが、杏子ちゃんの欲しいもの、買ってあげるよ」
 ポンちゃんが呆れ顔を見せた。あきらめの表情にも見える。
「よく言うわ。私、異常に金遣い荒いのよ」
「知ってる。だから時々になっちゃうけど、約束する。買ってあげるよ」
 ぐしゃぐしゃの顔を歪ませて言うエーちゃんを見て、ポンちゃんはそっぽを向いてフンと鼻を鳴らした。唇を尖らせている。
 頬がリンゴみたいに光っている。
 
 正午の時報が聞こえた。
 二人の奇妙なお付き合いは、どうやらまだ続きそうだ。



(了)


※涌井の創作小説です。4回の連載です。


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