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#日記
思うところあって、久々に舞い戻ってきましたよ
ここ2年くらい(ちょうどコロナ禍に入る前くらいからかも)、なかなかエネルギーを割り振るのが難しい日々がつづいていたのですが。
すっかり浦島太郎です。
まずは機能のおさらいを……と思ったら、だいぶアップデートが進んでいたようで。それをチェックするところからの再スタートです。
そんなわけで、体裁等おかしいところが出てくるかもしれませんがご容赦を。
ちくちくと調整していきます。
あまりこ
痛みの多い人生を送って来ました
久しぶりに、湯船に浸かっていたら、ふと思いついたことがある。
わたしは手応えの感じられないものに、あるいは興味を失ったものに対して「続ける」ことが苦手だ。それは昨日も書いた。
だが、その「続ける」の得手不得手は他者の時間軸を基準にした評価にすぎない。
やめてしまったもののうち、あるものは(一般的にはどうであれ)「もう十分にやり尽くした」と判断したものかも知れないし、またあるものについては
明日
散歩したい。
川べりを歩きたい。
天気はどうかな、
水辺は好きだ。なんとなく落ち着く。
森も好きだけど、それはどちらかと言うと水を湛えた気配がするからだ。
それに気がついたのは最近だけども。
バタフライ・エフェクトだ。
私が一歩動けば、ピタゴラスイッチ的になにかが変わる。
なんだかそんな気がする夏。
ものぐさが高じて、って言わないで
遂に、人間をダメにする環境を作ってしまった。
これまでは、仕事は仕事部屋でと決めていた。いや、仕事に限らず、ベッドにノートPCを持ち込んだらゆるさないからね(意訳)と家族には言われていた。
いかにもやりそうだとはじめから思われていたものだから、ノートPCを買った時にしっかり釘をさされた。
しかし聞いてくれ皆よ、これは決してダラ思考からじゃあないのだ。
仕事が立ち行かないのだ。
こ
尖ったものを、尖ったままで
noteを再開して数日になる。
歌も言葉も、なんとなく長いこと寝かせている期間が続いて、余計なもの――人がどうであろうと、自分にとって、余計であると決めたもの、がリセットされていることをほんのり願いながら、書いている。
わたしは尖ったものを尖ったままでテーブルに出すのが怖かった。わたしのアイデンティティの原型はそこかしこに棘を持っていて、それが他人や、自分を傷つけていくのが怖かった。
ことばに濾しとられたのちに残るもの
一年前の自分は、他人。
どうやら、「いま」にしか生きられない人間のようなのだ。
幸か不幸かわからないけど。
昔、自分の書いた日記は二度と読み返さない、読み返すのが恐ろしいと思っていた。
その時その時の最大瞬間深度の闇がそこに詰まっていそうで、蓋をしたら二度と開けられない、開けたら大変なことになるような気がしていたから。
だけど、媒体を紙からwebに変えて、それなりに綺麗にまとめる