尖ったものを、尖ったままで
noteを再開して数日になる。
歌も言葉も、なんとなく長いこと寝かせている期間が続いて、余計なもの――人がどうであろうと、自分にとって、余計であると決めたもの、がリセットされていることをほんのり願いながら、書いている。
わたしは尖ったものを尖ったままでテーブルに出すのが怖かった。わたしのアイデンティティの原型はそこかしこに棘を持っていて、それが他人や、自分を傷つけていくのが怖かった。
棘が飛び出さないように、ていねいにやすりをかけて、ついでに造形を整えて。
わたしの発するものはいつでもそうだったから、わたしは、そう、自分にほとほとうんざりしていたのだと思う。
つるつるに磨かれて綺麗に名付けられたものは、なんの爪痕も残さない。
といって、そのままの、歪なバロック真珠のような自分の姿をもまた嫌悪していて、その姿に苦しんでも来た。
だから、思い切る勇気が持てないまま、ゆるゆると進んできた。
誰かを害することがないか、誰かを追いやってしまわないか、誰かを傷つけないかということが、いつのまにか自分を良く見せることにすり替わってしまう。
奔放という「均された言葉」を纏った、いい子。でなければならないと思っていた。たぶん、今も思っている。
手放したい捨てたい脱ぎたい、
真実が見たい。
だから、こんど「創る」ことをはじめるときは、ルールを決めた。
おもねらないこと。易きに流れる心を許さないこと。嘘を吐かないこと。
表現をする者にとって、アイデンティティをどう出していくのかは永遠のテーマだ。
それが道の本質と言ってもいいのかもしれない。
表現者にとって、人生は長い長い対話。
サポートしていただければ今後の創作・表現活動に大切に使わせていただきます。めちゃくちゃ喜びます。萌える毛玉になって跳ねます。