そろそろふと紡ぎたくなって
ひさしぶりに、noteアプリを開いてみた。
嘘か誠か、「2秒前にバッジ獲得」のお知らせが目に入る。
なんと、たまたま開いたこの日がnoteはじめて2周年なんですってよ、奥さん。
良い勘してますね。
生きてるんだか死んでるんだかわからないけど生きてます。なんて書く人に絶好調な人はいない。
低空飛行といえば低空飛行が続いている、そんなここ一年ほど。
そもそも、noteを更新しなくなった直接のきっかけは、古傷をほじくり返して埋めたまま閉じちゃった棘を取り除くべく、カウンセリングに通い始めたからだった。
もともと明るく楽しいとは言い難いnoteだったとはいえ、それでも自分なりのプライドのようなものはあって、その明文化出来るもののひとつは「闇は見せても病みは晒したくない」というラインだった。
そして、カウンセリングに通い始めた時点でそのラインにどう折り合っていけばいいのかわからなかった私は、ふと書くことをやめてしまったのだった。
で、今。
さまざまな変化があったのだと、振り返ってみて思う。それはカウンセリングによるものだけでなく、環境由来の内的変化だったり、価値観のひろがりだったり。
(note以外の場所ではあるが)隠すことをやめてみて、案外、病みを病まずにフラットなトーンで語れることもわかった。
色眼鏡で見られることを恐れていた自分と、案外、色眼鏡を恐がらなくていい現実を知って、少しだけ強くなったような気もする。
……鈍感になっていないことだけは、祈るしかない。
年齢を重ねるごとに、怖くなくなることと怖くなることの両方があると感じる。
そのどちらも、自分という目が作り出しているにすぎないのだろうけど。
書けないでいる。歌えないでいる。すると、息が詰まる。生きているのか死んでいるのかわからなくなる。
いや、息をするようにしていたことをやめても生きている自分に失望してしまうのか。
そうなっては、再び文字や声を発することに怖気付いてしまう。
こういう気持ちを、心身の不調とコロナ騒動の両方ではじめて味わっている。
書けば、書ける。息は止めていればやがて死ぬけれど、言葉は死なない。長いこと止めていても、ちゃんと戻ってくる。いや、ずっとそこにあると言うべきか。
歌もそうであってほしい。鳴き方を忘れた鳥も、時が来ればまた囀り出すだろう。
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