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音楽史7『バロック音楽の誕生』

 バロック音楽は近世にあたる17世紀から18世紀頃のヨーロッパの音楽の事で、この頃のヨーロッパでは政治的に見ると君主、つまり王様とか皇帝に多くの権限が集中している絶対君主制が広まっている状態であった。

 従来のルネサンス音楽では対位法、つまり複数の声や演奏などの旋律が独立して美しく重なっているという曲調で、不協和音の使い方など様々なルールがあったが、マドリガーレの作曲家達はこういったルールに則った作曲ではなく歌う詩の感情を音楽でうまく表すための表現法を模索、ルネサンス音楽の枠を超えてゆくこととなった。

モンテヴェルディ

(↑モンテヴェルディのマドリガーレ)
 ヴェネツィア学派で最も著名な16から17世紀の作曲家モンテヴェルディもルネサンス音楽のルールを破った不協和音を用いる曲を作るなどして、このマドリガーレの型破りなやり方に同調、従来のルネサンス音楽の作曲法を第一作法、マドリガーレの新たな感情を自由に表現する作曲法を第二作法として定義し、自身は第二作法を推奨した。

(↑ペーリのオペラ)
 また、モンテヴェルディよりも前、15世紀末期にはモノディーと呼ばれる複数ではなく一人で歌う独唱スタイルの音楽がイタリアの大都市フィレンツェのジョバンニ・デ・バルディ伯爵の家で結成された音楽サークルで古代ギリシアの感情的な音楽の復活を目指すカメラータにより誕生した。

 カメラータに属す作曲家ヤーコポ・ペーリにより演劇中の歌として本格的に利用されこれがオペラとなり、これは今までの多くの声や旋律を重ね滑らかで美しく調整されたルネサンス音楽とは違ったもので、つまりバロック音楽への移行が起こった。

(↑カッチーニ作)
 また、モンテヴェルディやペーリと同じ頃のジュリオ・カッチーニという人物の楽譜では二つ重ねる旋律の下の方の旋律だけが記され、下に書かれた数字から上の旋律を推測するような感じになっており、この楽譜は、バロック音楽で使われる一番下の音だけ楽譜で書いて、上は適当に演奏する人が推測するという通奏低音の元になった。

(↑ガリレイ作)
 カメラータにはサークルにはガリレオ・ガリレイの父親ヴィンチェンツォ・ガリレイも幹部級メンバーとして参加しており、彼は音を研究する物理学の音響学での発見をおこなっていて、ガリレオが物理学や数学に入った要因になった可能性が高い。

(↑カヴァッリ作)
 当時、モンテヴェルディが住んでいたヴェネツィアはヴェネツィア学派と呼ばれる音楽の派閥が存在し、商業で豊かだった市民達によりモノディーの音楽を劇に取り入れたオペラの劇場が次々と建てらる程、オペラに需要があり、モンテヴェルディや弟子のフランチェスコ・カヴァッリによってオペラが制作された。

 ヴェネツィアのオペラは元となったフィレンツェのカメラータのものとは違って、話すような独唱レチタティーヴォや、旋律的な独唱アリアで歌われ、曲の最初と最後以外では主調ではない調で演奏されるというリトルネッロ形式がとられるなど発展を遂げていた。

ガブリエーリ

(↑ガブリエーリ作)
 また、先述した通りルネサンス末期のヴェネツィアではジョヴァンニ・ガブリエーリという人物が複数の離れた場所の合唱隊を交互に歌わせて曲とするコーリ・スペッツァーティ技法を確立し広めており、このような交互に演奏するものはコンチェルタートとも呼ばれ、リトルネッロ形式でもこれが受け継がれていた。

 それとは別にダリオ・カステッロなどの一部の作曲家によって旋律楽器の独奏もしくは複数を重ね、歌は入れずに曲にするソナタというものが誕生している。

(↑カリッシミ作)
 同じ頃、教皇のいるローマでも教皇庁や集まってきた貴族の邸宅を中心に音楽が行われ、その中でレチタティーボやアリアの歌い方を取り入れたカンタータが発生、教会の音楽であるミサ曲も引き続き作られた一方で宗教的な詩にカンタータの音楽をつけたオラトリオというものも誕生、カンタータやオラトリオの作曲者として有名な人物としてはジャコモ・カリッシミがいた。

フレスコバルディ

(↑フレスコバルディ)
 また、ローマではオルガニストのジローラモ・フレスコバルディも人気で楽器のみの曲も演奏されて、ここからバロックに特徴的なオルガン音楽が発展して行くこととなる。

(↑リュート)
 一方、ルネサンスや中世では西洋音楽の中心だった時期の多いフランスではリュートという弦楽器の研究や演奏が盛んに行われていたとされ、最終的にバロックリュートと呼ばれる形が誕生、この頃には宮廷でのバレエやリュート演奏での世俗的なエール・ド・クールといったジャンルが誕生していた。

ハインリヒ・シュッツ

(↑シュッツ作)
 そして、今までほとんど登場しておらず、当時はまだ発達した音楽を持っていなかったドイツの中でも南ドイツではイタリアへの留学が盛んで、特にイタリアのヴェネツィアに留学しモンテヴェルディやガブリエリに弟子入りしていたハインリヒ・シュッツという作曲家がオペラ、カンタータ、楽器のみの音楽を取り入れた音楽を広め、そのようなイタリア由来のバロック音楽はドイツにいるカトリック教会から離脱したプロテスタントの一つであるルーテル教会の信者達に受け入れられて行った。

スウェーリンク

(↑スウェーリンク作)

プレトリウス

(↑プレトリウス作)

 その一方、北ドイツではヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクというイタリアの音楽理論家ツァルリーノの弟子のオルガニストとその弟子達による北ドイツ・オルガン楽派が形成されており、ミヒャエル・プレトリウスがルーテル教会の讃美歌コラールに様々な技法を加えて発展させるなど、イタリアのバロック音楽と現地の音楽が融合しドイツ独自の音楽が出来上がっていった。

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