158. 死んだあとのことは引き受けてやるから、死ぬ気でやれ。〜土光敏夫〜
みなさんこんにちは。
今回は、石川島播磨重工業(現IHI)、東芝の社長を歴任し、経団連の会長を務めた土光敏夫さんの格言について紹介して行きます。
土光敏夫とは
1896年に岡山県御津郡に6人兄弟として生まれます。
家は農家で、父が米や肥料の仲買を営んでいました。
幼少期から体力に恵まれ、わんぱくだった俊夫さんは、
曳舟に肥料を詰め込み自宅から岡山市まで往復2時間かけて荷を運び、
家業を手伝いました。
岡山県名門の岡山朝日高校の受験に3度失敗し、
1909年に関西高校に入学、
学校行事の100キロ徒歩行進などで心身共に鍛えられ、
勉学にも励み、卒業時には2番の成績で「県知事賞」を与えられました。
琵琶湖のインクライン建設に携わった伯父の影響でエンジニアを志し、
東京工業大学を受験し、一度は失敗するものの、
1917年に機械科に首席で入学、
学費を捻出するため、住み込みの家庭教師をして学業に打ち込み、
ボート部の応援団を務めたり、寄席見物を楽しんでいたそうです。
1920年卒業と同時に石川島造船所に入社、
学生時代のタービンの研究を生かし、タービン設計部門に配属、
1922年にスイスのエッシャーウイス社へ研究留学し、先端技術の習得に没頭、
帰国後は国際タービンを国際水準に引き上げるべく奮闘します。
1936年石川島造船所は芝浦製作所と共同出資し、石川島芝浦タービン株式会社を設立、
技術部長になりました。
1946年には社長に就任し、
戦後の混乱の中、主力工場を再建するために、
横浜市鶴見の本社工場と長野県の松本工場の間を、
すし詰めの夜行列車で忙しく往復、
資金繰りに追われ、銀行や通商産業省へ連日通い詰め、官僚たちから「悪僧」と言われていました。
その手腕を買われ、1950年には業績悪化で経営不振に陥っていた石川島重工業の社長として復帰、
土光さんの発案により社内報「石川島」を刊行、
創刊号は自ら本社の正門前に立って社員一人一人に配布しました。
「受注なくして合理化なし」
を持論とし、徹底した経費削減と生産合理化を進め、
欧米諸国の会社と技術提携、先進技術の導入に努めました。
朝鮮戦争勃発で特需景気に乗り業績は回復しましたが、
これは一時的なものと予見しており、自ら先頭に立ってセールスに走り回りました。
積極的に海外進出策を採用し、
ブラジルやシンガポール、オーストラリア、ノルウェーなどにも進出しました。
1960年には播磨造船と合併し、「人の融和」を意図しており、大胆な人事異動がありました。
1962年には相王工場が進水量世界一となり、
1964年には名古屋造船と名古屋重工業をも吸収合併し、
造船世界一として名を馳せました。
1965年には東芝の社長に就任、業績の悪化の再建で、
上部からの命令を「チャレンジ」、
下部からのコミュニケーションを「レスポンス」
として「チャレンジ・レスポンス」が合言葉となり、
業績は回復しました。
〔参考文献〕
藤巻さつき . "ミスター合理化 土光敏夫" . 土光敏夫/NHK人物録 .
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/025dokou.pdf
死んだあとのことは引き受けてやるから、死ぬ気でやれ。
死んだ後のことばかりや、これからやることの後のことばかり気にして行動に移せないことがあると思います。
これをやったらどうなるだろう、
やらない方がいいんじゃないか?
そんなことを思っている時に、
何かあった時は、
死んだ後のことは全て引き受けてやると言われたら、
どれだけ心が楽になるでしょうか?
そして、後ろ盾があるということと、
自分が責任をとるということで、動ける人も多くいると思います。
「チャレンジ・レスポンス」もそうですが、
周りにいる人がどうやったら働きやすくなるか、
コミュニケーションを取って、情報交換がしやすくなるかで、
生み出されるものも格段に変わってくると思います。
そんな人のためを思い、事業の先のことを思っているからこそ、
たくさんの人に愛され、たくさんの仕事も任されるようになったんだと思います。
最後に
今回は、石川島播磨重工業(現IHI)、東芝の社長を歴任し、経団連の会長を務めた土光敏夫さんの格言について紹介してきました。
現IHIや東芝の社長をしたり、経団連の会長を任されたのも、
全て仕事と人に向き合い事業の業績を上げてきたからでした。
一つ一つ目の前の仕事に全力を尽くし、
どうやったら業績が回復するか、
マイナスからプラスに転じるように、どこを改善したらいいのかを真摯に受け止め、
時には「チャレンジ・レスポンス」のように働いている人がどうやったら働きやすくなるかも考え、
行動に移したきたからこそだと思います。
事業も拡張し、人も働きやすくなり業績も回復し、
次の仕事ではまた新しいものを生み出していく。
今の仕事を全力でやっていく先に、
今やっているものが何か繋がって新しい仕事に結びついていくんだなと感じました。
経団連の会長に就任してからは、
「行動する経団連」をスローガンに、オイルショックによる不況の中、
日本経済の立て直しにも尽力し、
仕事で日本を支えるというところまでやってきています。
仕事も本気でし、人も大切にすることで、
仕事も人も大切にできる人に自分もなっていこうと思います。
仕事や人を通じて努力を続け、
経済的にも人間的にも成長し、人生を豊かに変えていくことで、
たくさんの人の希望になるために、
仕事も遊びも全力でやっていこうと思います。
それではまたどこかで。
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