「母、登山靴を磨く」・・・父の葬儀の日、母は靴を磨いていた。ウルっとのちホラー。
『母、登山靴を磨く』
父の葬儀の後、
弔問客が帰り一段落ついたところで俺は、一服しようと庭に出た。
山桜と紫陽花が植えられているだけの小さな庭は、雑草に占拠され、
放置された路地裏のようなうすら寒さを感じた。
弔問客を入れるため障子が開け放たれているため、
庭から玄関の上がり框まで見通せる。
「この家って思ったより広かったんだなぁ」
などと改めて感心していると・・・
シュッシュッ。シュッシュッ。
玄関から、何かを擦るような音が聞こえた。
喪服のままの母が、三和土にしゃがみ込んで登山靴を磨いていた。
靴底の厚いソールからアッパーの防水生地まで
明るい茶色で統一した。父にしてはモダンな靴だった。
「母さんそんな事、今しなくても・・・」
声を掛けてやめさせようと思ったが、父を失った母の喪失感を考えると
何も言えなかった。
父が山登りをするようになったのは、定年退職をしてからだった。
余程性に合っていたのか毎週のように山に出かけ
ついには1500メートル級の山に、泊まり込みで挑戦するようになっていた。
初めのうちこそ母も一緒に出掛けていたが、
足をくじいたのをきっかけに留守番専門となり、
登山の日が近づくと、父の登山靴をピカピカになるまで磨いている姿をよく目にした。
晩年、父が年齢と体力不足を理由に山に登らなくなってからも
母は登山靴を磨き続けていた。
それはきっと再び山に登れるくらい健康になって欲しいという
願掛けでもあったのかもしれない。
シュッシュッ。シュッシュッ。
「よく頑張ったわね」
シュッシュッ。シュッシュッ。
時折靴に話しかけるながら、もはや履く者のいない山の相棒を
母はいつまでも愛おしそうに磨いていた。
父と過ごした日々を思い出しているのか、かすかな笑みも浮かべている。
俺は目頭が少し熱くなるのを覚えた。
「勝ち誇ってるわね。お母さん」
いつの間にか横に立っていた姉の美香が俺に言った。
「勝ち誇る?」
そう聞き返す俺を、美香は少し馬鹿にしたように見返した。
「ふん。これだから男は」
美香は指を二本立てて俺に向けた。俺は残っていた最後のタバコを渡し火を点けてやった。
「あんた。母さんが父さんを思い出して笑ってるとでも思ったんでしょう」
その通りだが、美香の言い草には悪意が感じられた。
「そうだろう。それ以外に何があるって言うんだよ」
「あきれた。本当に男って単純で簡単ね。
よく見なさいよ、あの靴。すごく綺麗でしょ」
「ああ。母さんがしっかり磨き続けたからだろう」
「あんたハイキングしたこと無いの? 岩だらけの登山道を歩いたら
傷も着くし草の汁に染まったり泥が滲み込んで、すぐに色も変わってくるでしょ。何年も履いてた靴が、新品同様なのはなぜだと思う?」
「だからそれは、母さんに気を遣ってなるべく汚さないように・・・」
「底抜けに人が好いのねあんたは。
よくこれまで人に騙されたりしなかったわね。
いい?父さんはあの靴で山になんか登ってないの」
「え?」
母がブラシで磨いている登山靴は、少し古びた感じがしたが、
表面の皮はピカピカで傷一つ無かった。
「山に行くと言って、毎回、女の家に泊ってたのよ」
父が浮気? あの無口で真面目な父が?
趣味らしい趣味も遊び友達も少なく、山登りに目覚めてから
初めて食べるものや体力作りにも気を遣うようになっていた。
それが、登山じゃなくて浮気目的だったなんて。
「きっと母さんが足をくじいて一緒に行けなくなった頃からだわ。
一人で出て行って帰って来た時に、母さん気付いたのよ。
山に登った筈なのにのに、靴が綺麗過ぎるって・・・。
あの日、夜中にものすごく怖い表情をして登山靴を見つめていたわ母さん」
「そうだとして、なんで靴を磨くんだよ。登山靴履くのは女の所に行くときなんだろう。山に登ってないと思ったら、『傷が無いのはおかしい』って
父さんを問い詰めれば良いじゃないか」
「そんなことをして何になるのよ。うっかり責めて、父さんがそのまま
浮気相手の所に行っちゃったらどうするのよ」
「それは・・・その・・・そういう可能性もあるけど」
「でしょう。だから母さんはしっかりと磨いたのよ。この人には
こんなにも靴をピカピカにしてくれる妻がいるのよって、浮気女に知らしめるためにね。
相手もそれが分かったんでしょ。その内父さんは、登山に行かなくなったわ。まだまだ山登りくらい出来る体力があったのに。」
俺はもう一度玄関の母を見た。
母は、時折綺麗になった靴を見つめて嬉しそうに微笑んでいた。
「よく頑張ったわね」
シュッシュッ。シュッシュッ。
その微笑はもはや、愛しい人を思い出す悲しみの姿には見えなかった。
じわじわと敵にだけ効力を発する毒薬を仕込み、
見事に戦果を挙げた秘密兵器を愛でるような勝ち誇った女の姿だった。
美香は腕を組んで嬉しそうに母を見ている。
夫が浮気をして離婚裁判で財産をたっぷり手にした姉には、
母の気持ちがよくわかるのだろう。
シュッシュッ。シュッシュッ。
俺は二人の女を見ているのが辛くなり、俯いて目を逸らした。
ピカピカに磨かれた黒い革靴が私の足を包んでいた。
妻はいつから私の靴を磨くようになったのだろう・・・あの夜からだろうか。
シュッシュッ。シュッシュッ。
俺の足首に絡みつくように、ブラシの音が聞こえた。
おわり
昨今の登山ブームは、
普段は着られない明るい服や靴を履けることに気が付いた中高年層が
山という非日常を楽しんでいるという説もあります。
それに合わせてファッション性の高いウエアやシューズが増えてきていると言われています。
何にしても趣味にときめきを感じるのは、良い事ですね。趣味にとどめるなら・・・。
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