双極性障害Ⅱ型ラプソディー 闘病記 【23】
医者との別れ
前回述べたように入院をしなかった私は、大学院を休学して実家に帰ることにしました。
そのため大学の近くにある病院に通えなくなりました。3年ほどかかっていた医者なので思い入れがありましたが仕方ありません。
医者は最後に「いいようにしてあげられなくてごめん。君の病気は分からない」と言いました。入院していた時の医者と同様に「わからない」ということで私は困惑しました。
病気は悪化の一途をたどりましたし、医者が双極性障害Ⅱ型について知らなかったことなどありましたが、今でもその医者には感謝しています。
あれから20年近く経ちましたがまだお元気にされているのか気になります。
実家に帰る
そして紹介状を書いてもらい、実家から近くのクリニックに通うことにしました。双極性障害Ⅱ型を得意と標榜する医者が在籍するクリニックにしました。
カウンセラーとは毎週、電話での相談をすることになりました。
実家に帰った私は落ち込んでいました。研究を続けられなくなり、博士課程から講師へ進むというコースから離れてしまった自分を不甲斐なく思っていました。
一旦休んでなんとしても大学院に戻りたいと思っていました。半年休学すれば入学当初の状態に戻ると思っていたのです。
この時点でも自分の病気を甘く見ていました。
家族
さて家族は優しく迎えてはくれました。
しかし私が家で療養していることを他人に知られたくなかったので、玄関に靴を置かせてもらえませんでした。
また家の周りをうろつくこともほとんど出来ませんでしたし、電話にも出ることが出来ませんでした。
私はとても肩身の狭い思いをしました。私は家にはいないはずの人間なのでした。家族にすれば私が「普通」のコースから離れたことを人には知られたくなかったのだと思います。ましてや精神の病であるということは隠すべき「恥ずかしい」ことだったのです。
しかしこれがいけませんでした。
私の自尊心を大いに傷つけることになったのです。
大学院に通っている自分は良くて、大学院を休学している自分はだめなのだと思いました。そしてなんとかだめな自分を変えて、良い自分にならなければならないと思ったのです。ここでも「~でなければならない」という思考に縛られていたのです。
病気を抱えながら生きるという発想はありませんでした。この二項対立的な病気の捉え方は私を非常に苦しめることになります。また私自身も「普通」のコースから離れてしまったことに負い目を感じていました。
とにかく病気である現状をなんとかしなければいけないと思いました。病気を早く治して大学院に戻るしか生きる道はないと思っていました。
カウンセラーはゆっくりするようにと言いましたが、とても実家でゆっくりと休養を取るという雰囲気ではなかったのです。
新しいクリニック
さて新しいクリニックに行くことになりました。
車で1時間くらいに位置していたので、父親に送ってもらいました。
まず1時間ぐらいかけて検査をしました。そして医者は双極性障害Ⅱ型という診断を下しました。
もちろんDMSを含めていろいろと検査をしたのですが、決め手はパキシルでの躁転のエピソードでした。
双極性障害Ⅱ型については、大学で検査した医者とほぼ同じことを言っていたと思います。
『うつ病新時代』
ところで実家に帰省する際にカウンセラーから、内海健さんの『うつ病新時代』という本を紹介してもらいました。
まだ双極性障害Ⅱ型が世間一般に広く知れ渡る前に書かれた本です。その本ではこれまでのうつ病と双極性障害Ⅱ型の違いについて症例を挙げながら詳しく説明してありました。
その例を読んでいると私のことが書いてあるのではないかと思う部分がありました。程度の差はあれ似たような症状の人がいることに驚きましたが、どこか安堵した部分もありました。
自分だけじゃないのだということでどこか安心したのです。中学生の時に強迫症が自分一人の苦しみだと思っていたように、複数の医者から「わからない」と言われる私の病気は自分一人だけのものだと思っていたのです。
強迫症について
新しく通うことになったクリニックでは強迫症のことは問題とされませんでした。
その当時、強迫症は強迫神経症と呼ばれ、神経症の一種とされていたのです。そのため双極性障害Ⅱ型がメインで強迫症はサブという位置づけにされたのです。
現代の医学ではそういう位置づけかもしれませんが、私は13歳の時に強迫症になって、それから双極症の症状が出ました。
そこで双極性障害Ⅱ型に強迫症が不随しているという考えには納得できないところもあります。いずれにせよこのクリニックでは強迫症の治療を行うことはなかったのです。
リチウムとの出会い
双極性障害Ⅱ型と診断されて診断されて薬は大きく変わりました。SSRIを中心とした処方からリチウムを中心としたものになりました。
リチウムは少しずつ増やしていきました。リチウムは血中濃度を確かめながら量を増やしていきました。
大きく薬が変わったので何かが変わるかもしれないと思いました。誤診によるうつ病の治療が病状を悪化させていたので、診断が変わり双極性障害Ⅱ型の治療をすれば病気は治ると思っていました。そして一週間に一回通うことになりました。
毎週父親が送ってくれました。父親は自営業をしていたので時間に都合がつけやすかったためです。今思うと仕事が忙しい中でよく時間を割いてくれたと思います。
妄想に生きる
その頃は家ではひどい生活をしていました。もちろん朝起きるのも遅いですが、一週間に3日くらいは一日中布団の中で過ごしていました。
とにかくつらかったです。そしていつも研究のことを考えていました。早く戻って研究を再開するのだと強く思っていました。
自分の生活は棚に上げて研究者として成功する夢を見ていました。中学校、高校で妄想していたように、この時も妄想で生きていました。
リチウムが効かない
日を経るごとにリチウムの量をどんどん増加していきました。規定量である600ぐらいまで上げていきました。しかし、血中濃度は思うように上がりませんでした。
そして飲み始めは少しいいかなと思っていたのですが、量を増やしても症状はよくなりませんでした。医者は血中濃度が低いからだと決めつけ、さらにリチウムを増量しました。1000ぐらいまで増量しました。
それでも病状は改善せず、週に3日は布団から出られなくなります。調子が良い日は本などを読もうと思うのですが、頭がしっかりしていなくてろくに読めませんでした。
医者はリチウムが効かないことにいらだっていました。
双極性障害Ⅱ型に認知行動療法は有効か?
その時の医者を始めとして、今でも双極性障害Ⅱ型は薬でコントロールするしかないという考えが一般的だと思います。
確かに躁状態については薬で抑えるしかないと言える面があるのですが、鬱についてはそうだとは思いません。
実際クリニックに通い始めて少し時間が経ってからですが、私はこのクリニックでも認知行動療法を受けました。やはり医師の間でも、日頃の考え方やものの見方が病気の要因の一つと考えられているのだと思います。
ただ、次回述べますが認知行動療法をちゃんと行える医者は少数だと思います。また認知行動療法は思考のくせの修正を迫るものであり、うつ状態に苦しむ患者には非常に負担が大きいです。
そもそも日常生活において一つ一つの出来事に対して認知と行動を変えていくというのは、よっぽど精神力がある人でないと出来るものではありません。
現実的にはうつ状態で極端になっている考え方を緩和し、治療の補助のような使われ方をしているのだと思います。
私はこういった認知行動療法を否定するわけではありません。症状の改善がみられる人も一定数いると思います。
しかし、時間と労力がかかりすぎます。何よりもその労力です。うつ状態で思考能力が低下している中では至難の業だと思います。
ストレスを減らすという考え方
そこで私が提案したいのはストレスを減らすという方法です。
ほとんどの精神病の原因はストレスです。内科の病気でも遠因にはストレスがあると言われていることが多いです。
それならばストレスを感じないようにすれば病気にはならないということが言えると思います。
そして今精神病で苦しんでいる方もストレスを少なくすれば病状が良くなる可能性が高いと考えられます。
ストレスを減らす具体的な方法について後々述べていきます。乞うご期待です。
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