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大学時代の恋愛物語 闘病記【11】

出会い

出会い系サイトで彼女と出会ったのは冬でした。寺尾聰じゃないですけど彼女はベージュのコートが印象的でした。年は同い年でした。顔は米倉涼子に似ており、仕事はゴルフ店に勤務していました。私は一目惚れしてしまいました。話してみるととても優しい人でした。私はその日に自分が病気を患っていることを告白しました。彼女も自分がリストカッターだということを告げました。お互い精神的につらいことを抱えている者同士ということですぐに意気投合しました。

それからほぼ毎夜会うようになりました。その当時私は学校での授業に部活、バイトをしていました。バイトが終わった、夜10時頃から会っていました。今考えるとすごくハードなスケジュールをこなしていました。恋の力とは恐ろしいものです。

日を追うにつれて、彼女が私のアパートに来るようになりました。私は一人暮らしの寂しさから脱した思いがしました。長渕剛の歌じゃないですけど、恋する力の何割かは一人暮らしの寂しさがあると今は思っています。

有頂天

彼女が出来て、長年妄想していたことが現実になったのです。私は有頂天でした。かわいい彼女がいるということが誇りでした。
最近知ったことですが、アメリカでは精神病の人が自分にふさわしいパートナーが見つかると人生が好転すると考えている人が一定数いるようです。
私もまさにその通りでした。これで全てがよくなると思いました。そのうちに病気も治るのではないかと思いました。

かわいい彼女がいるということで他の人に対して優越感を持ちました。うつ病に強迫症を抱え、学校になじめず部活でも友達がいなくて塞ぎ込んでいた私ですが、生活が一転しました。学校や部活の試合に彼女を連れ回すようになりました。私は彼女を自慢したかったのです。彼女をブランド物のように思っていたのかもしれません。

今になって思うと自我肥大を起こしていたのだと思います。愛情よりも自分を誇りに思えることが大事だったのだと思います。虚栄心を満たすには十分すぎる彼女でした。

絶好調

私はだんだんと元気になりました。前の彼女と別れたことによるうつ状態からは脱していきました。自分の願いが叶ったのですから調子がよくなるのは当然と思われるかもしれませんが、それどころではなかったのです。それから度々他人とトラブルを起こすようになってきました。

あるとき彼女と自転車で二人乗りをしていました。そこを警察官に見つかりました。そして警察官と言い合いになりました。私があまりにしゃべるので、警察官に「薬物をやっているのか?」という疑いをかけられその後大変でした。

部活の人とも言い合いになったりすることがありました。また部活の試合で彼女が友達と見に来たのですが、高校生の時と同じく私はテンションが上がりすぎて先輩から怒られるくらいでした。

先ほども述べたように学校の授業、部活、バイト、それに加えて毎晩彼女と遊んでいたので睡眠時間は短くなりました。

もう気づいた方もおられるかと思いますが、今になって思うと私は軽躁状態であったと考えられます。うつ病と強迫症で医者にかかっている人とは思えない行動をしていました。

しかし自分としてはうつが良くなって、やっと本来の自分らしく振る舞えるようになったと思っていました。子供の時から本来の自分というものが全く分かっていなかったのです。

強迫症

だからといって想像とは違い病気はよくなりませんでした。常に彼女を失うかもしれないという不安を抱えていたのです。そのため強迫症はひどくなりました。いじめられるかもしれないという強迫観念にプラスして、彼女を失うかもしれないという強迫観念が湧くようになってきたのです。

強迫観念が強くなったのでもちろん強迫行為も増えました。最初は彼女もかわいそうだと思って見ていたそうですが、だんだんと態度が変わっていくのです。それについては次回述べます。

一般的にはうつが強くなると不安が増して強迫症が出るといわれます。ところが私は調子が良いときの方が、強迫症が強く出ました。調子が良いときの方が彼女を失うことを恐れて不安になるのです。

逆にうつで調子が悪いときは「もうどうなってもいい」ということで開き直って、不安は減り強迫症はましになるのでした。カウンセラーにそのことを言うと、心理学的には考えられないと言われました。今でも調子が悪いときは強迫がましになることに変わりはないので、私はどこか狂っているのかもしれません。

同棲

そして春になって二人で住むことにしました。私は一人暮らしの寂しさから解放されたのです。全てがうまくいっていると思っていました。そしてうまく行き過ぎていることに不安を覚えました。自分がこんな幸せになっていいのだろうか。これから自分にとんでもない不幸なことが起こるのではないか。

生まれつき心配性の私は幸せよりも不安の方が大きかったのです。この関係が続いていくのか心配でなりませんでした。なんとか彼女が自分から離れないようにしたいと思いました。

浮気

不安をどうしようもなくなった私は浮気をしました。相手はバイト先の女子高生でした。すぐにバレました。そもそも隠す気もなかったのです。どんなことをしても自分を愛してくれるかどうかということを確認したかったのです。やったことは最低ですが、私は彼女の気持ちを確かめたかっただけなのです。

彼女もまた浮気をしました。私の知らない男と二人で東京に泊まりがけで行ったのでした。もちろんすぐに浮気をしたのだと気づきました。それを私は愛情という名前で許しました。

私たちは不器用で、お互いに傷つけ合うことでしか愛情を確かめられなかったのです。今になって思うと、そもそも二人には愛情が存在したのかは分かりません。正直今でも愛情とはなにか分かりません。

心中

ある日、私のアパートに彼女が来たときに、彼女は過呼吸になりました。たまにあることだったので、ビニール袋を当てて治りました。彼女も精神的には不安定な面があったのです。その後お互い一緒にいられて幸せだという話になり、これ以上の幸せはないから一緒に死のうということになりました。

その時は幸せがいつか壊れてしまうことも分かっていましたし、綱渡りのような毎日が続かないことも分かっていました。そしてお互いに精神的に問題を抱えていたので、それから脱出したいという思いもありました。そして心中しようということになりました。

そして私が医者からもらっていた薬をODしたのです。お互いめちゃくちゃ苦しくなりました。彼女はそういった薬を飲んでいなかったので余計に苦しみました。でも量が足りなかったので二人とも生きていました。

私は前から薬を飲んでいたので、「このくらいでは死ねない」ということはどこかで分かっていたと思います。彼女はきっと本気だったのでしょう。私たちは命のやりとりをすることにより愛情を確かめていたのです。

この一件があってカウンセラーや医者にはこっぴどく怒られました。愛するということが分からない二人は、その時にはもう心中という形でしか愛を示せなかったのです。二人はまだ若かったのです。

私の美学

また私は当時、幸せの絶頂で死ぬのが人間として美しいと思っていました。よくわからない武士道のような自分の美学がありました。単に幸せの後に来る不幸が不安だっただけだと思います。

振り返ってみると病気になってからはとにかく生きていることがつらかったです。幸せであれば幸せがなくなることを恐れ、不安に対処できずに強迫症のなすがままになり、どうにもなりませんでした。
あと自分でどうしようもない、言葉では表現できない感情を抱えていることにも気づいていました。

毎週カウンセリングと医者にはかかっていました。カウンセラーには何でも相談していました。そのたびに怒られたりなだめすかされたりしていました。不安なことをとにかくぶつけていました。

カウンセラーはどうにもできないけど生きましょうといつも言っていました。後から聞いた話ですがカウンセラーは私がうつ病なのか疑問を持っていたそうです。しかし医者の見立ては変わらずうつ病に対する治療が行われました。カウンセラーは双極症を疑っていたのですが医者には言えなかったようです。カウンセラーと医者とのパワーバランスが私の双極症の発見を遅らせていたのです。

またカウンセラーは常々25歳まで生きようと言っていました。私が持つ若者特有の危うさに対してはどうすることもできないようでした。病気に対しても打つ手がなく、私が問題を起こす源にある生の危うさにも対応出来ていなかったのだと思います。

病気とはなんでしょうか。私は幸せで調子がよければよいほど強迫に苦しみました。またどうしようもならない気分の落ち込みもありました。自分が絶好調の時でも大きな不安に苛まれていましたし、同時に死んでしまいたいと思っていました。

人間の精神というのは複雑なのだと思います。また軽躁に見えるエピソードも病気のせいだったのか、ただ若気の至りなのかも分かりません。私は人間として狂っていたとしか考えられません。

狂っている人間が人との関係を持続できるはずもありません。二人の愛の綱渡りは急に幕を閉じることになります。

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