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毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ⑨

怒りの正体


きょうだいは子供の頃から言葉で通じないと殴る蹴るの力で抑えつける癖があった。


大人になってもそういう支配癖は変わらず、未だに思い通りにならない事があると激しい怒りで人を徹底的に叩きのめすような言動をする。


今はさすがに子供の頃のようにすぐに暴力は振るわないが、それでも強烈に怒ると手が出てくる事もある。


見た目はもういい歳の大人だが、そうなった時は泣き叫びながら母親や家族をコントロールしようとする子供の頃と変わらない。


人をころす勢いで攻撃してくるその激しい「怒り」は、私だけに対して、というよりきっと幼い頃からずっと身内に抱えている怒りなんじゃないか、と少し可哀そうにもなる。


力が敵わないのをいいことに、小さな頃から私に当たり散らしてくるけれど。

行き場のない怒りをずっと溜め込んで生きているように見える。


変わった性格で我が強い、と言ってしまえばおしまいだが、大人になっても何かの時に出てくるその「怒り」に触れるたびに


怒りの根っこにはきっと似たような哀しみがあるのかもしれないと気づく。

一言で言えば「親にもっと愛されたかった」という怒り。



きょうだいとして、家族として、ある一定の長い時間を同じ屋根の下で過ごしたのだから、色々な思い出がある。


嫌なところだけじゃなくて、いいところも、そんな人でも優しさや愛がちゃんとあることも知っている。


憎しみ方も強烈で、悪魔のような一面が存在していることも知っている。


表現も相手への愛憎も極端で激しい。

他罰傾向が極度に強いわりに卑屈になりやすい自己否定感も強く抱えている。


清濁併せ吞むとか適当に流すことができないから、まともにやり合うと途轍もなくエネルギーを消耗する。


そういうところは母によく似ている気がする。


根からの悪い人間ではないが、白か黒、善か悪しかない二極の世界は争いが絶えなくなる。



そういうカオスな思い出が混在する中で、家族への絶対的な信頼関係はもう私の中には存在していない。


壊れた関係が今後も完全に元の状態に戻ることはないだろう。


違う形で少しづつ修復することはあるとしても、ひび割れたままの継ぎ接ぎだらけだ。

そして少しの衝撃でそれはいつでも壊れやすく、脆く危ういものだ。



自分と向き合うことは苦しい痛みも伴う。


人を責め続けていた方が痛みは少ないかもしれないが、怒りの根っこにある苦しみや傷は、誰かが身代わりになって取り除いてあげられるものではない。


「家族だから」ってその全てを受け止めきれない。


自分を犠牲にして優しく受け入れることだけが「愛」ではない。


今となっては私にしてあげられることは、それを理解して優しくする事でも、家族の機嫌を調整することでない事も、知っている。



なるべくなら平和に穏便に済ませたい気持ちは強いけれど、それはどちらか一方が合わせて折れる事ではない。


それが分からない相手に対しては、お互いのために時には穏便にもいかないことを知らしめることも必要なのだろう。



泣きわめいて叫んで力づくで母親(人)を思い通りに支配するのは、何もできない話せない赤ん坊だから許されること。


言葉というのは相手を叩き潰すためにあるものではなく、お互いを理解し合うためにある。


言葉が話せる大人同士に必要なのは、喧嘩でも支配でもなく暴力でもなく、対話だ。


そして対話に必要なのは、対等な関係と尊重と理解。

それも「同質、同調」圧力のための対話ではなく。



正論なんて言ったところで通じなければ意味もないし、相手のことはコントロールできないけれど。



健全な世界は「異質、違い、多様性」を認めた上で成り立つ。


その世界で平和な対話をすることは、難しい時もある。


互いを生かすことは「自分をコントロールする」理性も必要であり、簡単ではないかもしれない。



家族は他人と違って完全にキレイさっぱり縁が切れるわけでもない。

根深い問題は何か魔法の薬があってそれで万事解決するわけでもない。

きっとしぬまで何かの度に傷が痛むこともあるのかもしれない。



でも、自分も人も責め続ける激しい怒りの感情をずっと持ち続けられるほど人間の心は頑丈ではない。


愛と憎悪のいったりきたりを強烈に繰り返していくうちに人はいつしか心が壊れてしまうから。


心が壊れてしまったら、人を救う事は愚か自分を救う事すら出来なくなる。





続く



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