【凡人が自伝を書いたら 24.大学3年生(序)】
僕は法学部だった。(え、今ごろ)
大学では、学部に全く関係ない、哲学や、心理学、経営学、宗教学なんかの講義も興味本位で聞いていた。友人の方は相変わらず。酒を飲んだり、食事をしにいく友人はいたが、それも両手に(余裕で)収まるくらいのもんだった。(かわいそうに、)
「我らのサークルは、、」
僕はサークルの会長として、組織としての「アイデンティティ」のようなものを築こうとしていた。(妙な本気具合。こわい)
「我らはテニスを楽しむ者である」
まずはこれである。初心者も大歓迎。ただ、初心者も全て「テニスを楽しむ」ことが大前提だった。コート上で他の遊びをしたり、ボールやラケットを使って他の遊びをする行為は無しだった。(例えば野球をしたり、)そういう事例があったわけではないが、まず一つ、これが大前提だった。
「ものの分別あれ、美しくあれ」
次はこれだ。僕らのサークルにも飲み会やイベントはもちろんあった。飲み会なんかは50〜70人くらいの参加になるので、ほとんど貸切で開催していた。その中でも、店の人に迷惑はかけない。問題を起こして、親や学校に迷惑をかけない。一番は自分を不幸にしない。
これだった。だから、いわゆる「コール」は、ほぼ存在しなかった。あってもやりたいやつだけで、それでも無茶はしないように、だった。お酒を飲まないことも全然OKだった。
僕なんか、飲み会が始まると同時にどしっと構えて、日本酒やらウイスキーなんかをチョビチョビと呑み、大阪出身でお笑い魂を持った後輩の芸をみてゲラゲラ笑っていた。
初めは、あまり友人もいないような暗めだった女の子が、少しチャラめのやつとも仲良くなって、次第に明るくなる。いつもサークルや、飲み会に参加してくれる。それが会長として本当に嬉しかった。何より、いろんな個性豊かな人間たちが、1つの場所に集まって、楽しそうにしていること、これが何より嬉しかった。そういう姿を見ているだけで、酒が美味かった。とても幸せだった。(南無)
多様な人間が、テニスを通して、繋がり、人生を豊かにしていく。そんなサークルにしたかった。(マジメ)
「俺がやってやる」
アルバイトでは、もはや絶対的エースだった。(おごりの香ばしい香り)それも少し超え、店長業務もほぼできるようになっていた。そんなだから、それまでいた店長はいなくなり、「エリアマネジャー」が一応店舗に所属し、週に1〜2回来る。そんな感じになっていた。(まあ、いい感じに使われていたということだ)
同期のメンバー、後輩、主婦さんなんかの先輩方も、僕を認めてくれていた。採用や面接なんかも担当していたため、面接の際は、誰もが僕のことを店長だと思って話していたため、僕が「そんなに気を使わなくても、わたくしは学生でございます。」と伝えると、とても驚いていた。所詮学生レベルの仕事ぶりだったが、それでも貴重な経験だった。
学生の面倒をみつつ、主婦さんには敬意を払い仕事をしていた。休日は学生で店を回し、主婦さんは基本休み。これも主婦さんの希望だった。そんな感じだったから、僕が入った時は19人という少人数で無理やり回していた店も、35人くらいのいい感じの店になっていた。
「さらなる発展を」
4月。今年も大学全体で「新入生歓迎会」が行われた。入学式の後、部活やサークルがキャンパスにブースを設置し勧誘する、あれだ。
今年はどんな子達がいて、どんな子たちが仲間になるのだろう。僕は楽しみでたまらなかった。
大人数でサークルのポロシャツを着て、楽しく勧誘した。もはや、芸人ばりに芸をやっているだけのやつもいた。
「ソフトテニス楽しむならうちで!!」
これだった。サークルの活動自体にも自信があったので、迷っている人にはぜひ一度見に来てということで、見学を勧めた。チャラい系、面白い系、美女、イケメン、大人しめ、いろんなジャンルのメンバーを置いて、話をさせた。
結果、またもや30人ほどのメンバーが入会した。中にはサークルの活動を実際に見て決める子もいたし、中には僕のテニスを見て入ることを決めたと言ってくれる子もいた。(その長い物には巻かれろ精神、逆に可愛い!)
強者も入ってきた。若干ネットプレイヤー弱めだったところにネットプレイヤーので県上位になっていた1年生が2名入ってきた。チームとしても盤石になった。
僕はこれ以上ないくらいに順風満帆だった。「俺はなんでもできる。」そんなことさえ思っていた。ただ、「謙虚であること」も大事にしていたため、それをひけらかすことは無かった。ただ、心の中には確かにあった。
人は毎日見ていると、次第に「伸びゆく鼻」に、意外と気がつかないものだ。
こんな感じで「山あり谷あり」の1年が始まった。
つづく
お金はエネルギーである。(うさんくさい)