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秋川まりえのイメージがおかっぱ座敷わらしに固定されてしまった

ぼくは以前、騎士団長殺しの1巻……といいますか上巻を読んでいて、秋川まりえの造形について想像すると自分が知っている少女に当てはめざるを得なかったという話をしました。ヘッダ画像をお借りしています。

別に読む必要はないんですがそれについて書いたnoteはこれで、


最新の感想はこちらだった気がする。


でもその少女は非実在であり、「騎士団長殺しの下巻」を210ページまで詠み勧めたらいつのまにか上記のイメージは喪失していた。

ここに理由があるとすると、秋川まりえに「色がついてきた」からだと思えます。色とは色恋ではない、発情とかではない。これはごく個人的な思いだけど、秋川まりえの齢は忘れたけどそのようなことに興味を示してほしいと現時点では思わない。

当初、秋川まりえはただでさえ無口な人間であり、周りとの関係性が一切見えなかった。だからその時思い浮かんだ適当な少女像が当てはめられてしまった。

だけど、上記で示したページまで読むと秋川まりえはこれまでぼくが感情移入できたりできなかったりしてきた人々(秋川まりえより先に出てきた人々だ)に対して自分のイメージを発露するようになった。

一番でかいのは主人公(に対するイメージが発露されるようになったから=と、よくコミュニケーションするようになったから)だろうけど、自分の保護者や免色についても話すようになった。

するとなにか、秋川まりえに色がついて見えるようになってきたわけです。もっとも、スタジャン着てるみたいな描写もあるからそれに引っ張られてるのかも知れない。なんでもいい。

色がついた秋川まりえは斯くして最初に言ったようにおかっぱの座敷わらしだった。赤い服を基調にしている。ぼくの中にある、座敷わらしのステレオタイプなイメージがそれなのだろう。

物語の中に出てくる人々は造形を持っていない。ぼくは少なくともそのような条件下にある物語―――物語の中でも活字で表されたものに限定されるだろう――しか、この世にはないものなんだろうと思っていた。

小さい頃から、周りがライトノベルのような予め「絵ありき」な物語を読んでいたことが多かった。

絵ありき文化な活字媒体があることも多分なんとなく気づいて知っていたんだろうけど、みんながマジで「絵が予めついてる物語」を読んでるっぽいと知覚できたのはもっと後のことだった。

これは別にぼくが周りより知的生命体だったとか、ライトノベルが文化的に劣ってるとかいいたいわけじゃなくて、なぜぼくはそこで絵ありき文化に直行しなかったのだろう?と思ったのと、

・絵ありき文化の読者の脳内における物語や出てきた架空の人々の外観についてのイメージ

と、

・絵なし文化の読者におけるそれ

が、どのように異なるのかについて興味を持つことになった。あるいはそれぞれの場合について、言語野における成長過程みたいのってどうなっているんだろう?違ったりするんだろうか。

もっともそれも、現在のラノベ側の編集者たちにはごく当然にシェアされている「指標」のようなものがあるなら、彼らにより「成長の有り様」が牛耳られてしまっていることになる。

例えば、デビューしたいなと考える作者がいる。文字書きには一定の造詣があるが、そこまで確立されたものではない。

彼らに対して、果たして編集者が立ちはだかることだろう。彼らは書く側のではなく自社のブランディングとマーケティングしか考えない生物だ。ぼくは書く側も編集側も目指したことがなく、またいずれの人々ともお話したことがないので想像でしかない。仮にぼくが編集者側になったら、書く側のブランディングのことを考えてあげられるだろうか?目先に給与をぶら下げられて、編集者は編集長から「作者のことなど考えず、社の利益と読者のことだけ考えろ」と言われてしまったらどうするべきだろう?

斯くして編集者は、彼ら書く側の文体が確立する前の段階で「これとこれみたいな漢字や言い回し使っちゃダメだかんな。小学生も読める文体でよろ」みたいに個性をぶっ殺す商売とかしていないかどうか、さらにそれが読者である子どもの文体形成に影響しちゃってないか気になる。我ながらものすげえ杞憂な気もする。

で、お借りした画像を見れば見るほど秋川まりえといいますか青豆に見えてしまうようになった。

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