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「いいね数」の可視化オンオフ機能を寄越せ

昨日は多様性を引き合いに「社会とのつながり性」について考えてましたが、

期せずして読んでいたインタビュー群の中でアクティビティつまりSNS的つながり・コミュニケーションについて真反対の意見が当該インタビュイーであるプロ中のプロのお二方から読み取れたのが面白かったためアウトプットしています。ヘッダ画像をお借りしています。

登場人物

ひとりは登山アプリ・ヤマップをお造りになられた開発運営提供企業の春山慶彦(敬称略)。

もうひとりは映画監督みたいな感性でゲームをお造りになられている小島秀夫です。

デススト

デス・ストランディングについて。

そもそもゲームとは一般的にどこまでも独りよがりなものであり、独りよがりに好き放題できるからストレス解消のためのエンターテインメントになったりする。

独りよがりだから責任を負わなくていい。責任はないけどゲームシステムという制約の中で限りなく自由に過ごせる。ゲームで遊ぶことも自由ならわざと全然クリアできないことを楽しんだっていい。

だけどデスストだと自分が建てた橋を誰かがゲーム内機能で褒めてくれたりする。そもそも一方通行どころか無方通行なコンシューマゲーというプラットフォームにおいて、SNSアクティビティであるいいねみたいな機能を備えるという発想が画期的であるように思える。

小島自身も、自分のためにやってたゲーム攻略のつもりの行為が、いつの間にか褒められていてユーザは驚く、みたいなことを言っていてなるほどと感じます。

するとユーザは後発のことを考えるようになり、自分が難所だと思ったところに解決策を示し始める。そしてそれがゲームを越えて実生活にも浸透することを小島は狙っていた(ウーバーイーツに感謝を述べたり)ということなのでほぼほぼバーチャルがリアルに影響を与える事象となっている。

だって「VRchatで親切にされたから現実でも頼まれたら嫌な顔せず道案内してあげよう」みたいなのと変わりませんよね。

変わりませんよね、とかいうとなんか軽めにコケにしてるように思われてしまうかも知れませんが、もしVRchatというゲーム媒体(VRchatをゲーム媒体とは見做さない向きもあるでしょうが)で出会った人々がいい人であり、その人達のおかげで生活習慣改善なり意識改革が起きたのであれば、ゲームというバーチャル媒体が現実に好影響を及ぼしている。

という意味で変わりませんね。同じですね。いいことですね。と言いたかった。なんか冷静に前向きな事実を述べてたら心を持たない奴が書くような文になってしまいました。

ともあれ独立したことで、1からでも信頼が得られるようなゲームリリースを目指そうとしてこのような類を見ない内容のものが完成して盛り上がっているのであれば、相当な成功だと言えるんじゃないだろうか。

ヤマップ

ヤマップが造られた経緯も登山を通じて人と人とをつなげたいという動機によるものらしいですが、SNSアクティビティとりわけ承認欲求に訴えかけるものは排除されている。段階的にそうなった。

SNS的アクティビティはゲームはともかくアプリ上ならマネタイズ的なそれこれにも役立ちそうなのに、あえてなくしてしまうことに驚かされる。

インタビューから読み取ろうとすると、根本的な理由はアプリの存在意義が「山登りという行為を単純に楽しむため」だけにあるからだと言えそうでした。ご本人の言葉では承認欲以上の価値を循環させたいというもの。

このアプリを使ったことがないから実際の細かいところがどうなっているかはわかりませんが、基本的にユーザの性善説に基づく情報共有が為されているように見えます。つまり山のどこが安全なのか、危険なのか、景観がいいのかとかを共有できる。

ぼくは常に最悪を考えてしまうため、この情報共有に虚偽が含まれていたらどうするんだろう?と思ってしまった。

つまり熊が出る道なのに、こっちに行けばきれいな花が咲いてますとか書かれたり、橋をぶっ壊した奴がこっちに行けば橋がありますとか言ったり(それは普通に犯罪ですね)……そういうのをしょっぴくにはどうされているんでしょうか。

利用規約で「嘘を書いたら法的手段です」、みたいにせざるを得ないんだろうか?そうすると「これはあまりに主観的な情報過ぎて不適切だった」みたいに、悪意100%で無理やり運営に告げ口するユーザが出てきそうに思ってしまった。

あくまでユーザが書き込める情報を限定してしまい、道の難易度とか障害物を選択方式で投稿するとかなら管理が一元化できそうな気がするけど、天気とかにも行程は左右されそうだしその善悪の判断がめちゃくちゃ難しそうに思える。ゲームと違って現実だから道路状況は固定できないため難しいっすね。

そう考えると……承認欲といいますか功利を得るために正しい情報を書くことをユーザに対して緩やかに強制させるという意味でもいいね的アクティビティがあってもそれなりに機能するとは思ったんですが(ヤマップでは仮想通貨的なもののやりとりが一応できる)、「せっかく正しく素晴らしい情報をアプリを通じて広めてやったのに、誰もハートを押してくれないよふざけんな」みたいなユーザもまた同じ数だけ生んでしまうような気もする。非常に難しい。

ハートが見えるかどうか選択制にしてクレメンス

だからぼくは下手な功名心も起こさせないように、期待はずれを起こさせないようにも、「誰かがハートを押してくれたかどうか、そしてその数はいくつか」なんて、実装する前にまずその人が見たいか見たくないかの気持ちを重視してやり、自由にしてあげればいい、つまりハート数の可視化がON/OFFできるようにすべきだと思えた。ここnoteでも同じです。

ユーザは誰かからのハートを無視する権利もあれば、ハートに影響されてハートが増えるように+まるでハートの奴隷のように、そっち寄り=❤の数を増やすためだけの内容ばっか書く人になっちまうような、自分を失くしてしまうようなnoterになる権利もある。

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