見出し画像

"インチキ"と言われた探知機が世界のスタンダードへ。漁師と向き合い続けた"魚探誕生アフターストーリー"

こんにちは。12月3日は「何の日」かご存知でしょうか?
国際障害者デー、カレンダーの日、某有名テレビゲーム機の日、いろんな記念日がある中、昨年追加された記念日があります。
それが『魚群探知機の日』です。
なぜ12月3日なのかというと、この日に私たち古野電気株式会社の前身、古野電気工業所が設立され、世界で初めて魚群探知機の製造、販売を開始したことに由来します。

さて、この魚探の開発ストーリーはこれまでもいろんなメディアで紹介されてきました。しかし、魚探が作られた後、どのように日本中にフルノの魚探が広まっていったのかはあまり知られていないように思います。
(そもそもあまり紹介したことがないような気もします)
そんな魚探が生まれた後のアフターストーリーをお話しさせてください。

古野電気創業の地、長崎県南島原市 口之津町

1948年12月3日 魚探に賭けた古野電気工業所の設立

長崎県橘湾、とある青年が集魚灯工事をしていたある日の夜
「魚がいるところには泡が出る」
そんなベテラン漁師の一言が当時若干22歳、船の電気装工事を生業としていた古野清孝きよたか(古野電気創始者)を魚探開発に駆り立てることになります。
1945年の暮れに開発に着手、およそ1年後の1947年の4月に最初の実験が五島灘で行われました。
うまくいったりいかなかったりと一進一退の中、改良を重ねる清孝。弟の清賢きよかたは漁船に乗り込み実験を繰り返します。
ある時清賢が「イワシの大群だ」と船頭に告げ、網を引き上げさせたところそこにいたのはクラゲの大群。
「なにが探知機か!こんなものはインチキだ!」と海に放り込まれたという話は有名な逸話として社史に刻まれています。

逆にイワシの大群を見事発見したこともありました。しかしその時も清賢は船頭に「持って帰れ!」と怒鳴られたのだそう。
長年の経験と勘と度胸で海の男たちを率いてきた船頭にとってみれば"機械で大漁になった"という出来事は到底認められないことだったようです。

そんな課題もある中、1948年の12月3日、ついに合資会社 古野電気工業所が設立されました。従業員7人、魚群探知機に賭けた小さな会社が誕生しました。

古野電気工業所

1年目はクレームの嵐、1隻の船が全てをひっくり返した

スタートを切った古野電気工業所には多くの壁がありました。当時の魚群探知機の販売価格は60万円、1950年ごろのサラリーマンの年収水準は12万円ほどであったため、決して安いものではありません。

初期の量産型魚群探知機

さらに世界最初、世界唯一の製品、画期的を通り越して、異質なモノとして扱われていたそうです。中には「魚探を使うと海に電気が流れるから魚の卵も稚魚もみんなやられる。絶対に使わない。」という噂もあったそう。
「電気じゃなくて音波を使う」と説明すると、船主が逆に「俺が海に飛び込むからスイッチを入れろ!」と言い、身体にロープをつけて海に飛び込んだそうです。結局ビリビリしないということで売り込みは成功したんだとか。

まだまだそんな時代で漁師たちは魚群探知機をうまく活用できず、古野電気工業所には魚探の返品の山が積み上がりました。
次第に実験に協力してくれる船主も大方そっぽを向いてしまいます。そんな孤立無援のピンチの中、兄弟が頼った船主は五島列島岩瀬浦の桝富丸ますとみまるの船主、桝田さんでした。

古野電気の”大恩船” 桝富丸

当時五島列島周辺は大漁にわき、岩瀬浦漁協は毎月の水揚げ競争で活気がひときわ盛り上がっている反面、桝富丸は漁獲高が最下位に低迷、そんな状況もあったのかもしれません。
なお、魚群探知機が桝富丸に運び込まれた際は「俺への当てつけか!」と船頭が怒って下船、代わりに弟・清賢がにわか船頭としてやむを得ず乗り込んだそうです。

すでにこの頃の魚群探知機の精度は高く、清賢は魚群探知機の記録紙に映るエコーから魚種を推測できていたそうです。
例えばイワシは記録紙がまっくろに、アジがまざると渦巻きのような記録になるといった風に。
そうすると「イワシの場合、一度に多く取りすぎると網が目詰まりして掃除が大変、最悪破れることもある」と網を巻く量を少なくし、漁獲を敢えて抑えるといった調整が可能になりました。
そのため桝富丸は魚群を探知できるだけでなく、他の船が網の掃除や修理で漁が出来ないのをよそ目に、1日に何度も漁にいけるという状況が出来ていました。
その結果、かつての最下位船・桝富丸は魚群探知機搭載後の3ヶ月間、岩瀬浦漁協でダントツの1位を独走しました。
魚群探知機を搭載するだけでなく、漁のやり方も変えていく。いわゆるハードとソフトの融合が魚群探知機を成功させたのです。

初代魚群探知機の記録紙

それを象徴するキーワードとして「イワシの神様」という言葉が社内に伝わっています。
桝富丸の成功後、1949年10月には岩瀬浦全船団が魚群探知機を装備しました。そして清賢は連夜漁船に乗り込み、魚探の使い方を現地指導。
その姿には魚探を操る名船頭の貫禄もついてきたそうで、いつの間にか付けられたあだ名が「イワシの神様」、数年前に海に投げ込まれた若者が一躍神様になる、そんな奇跡を魚群探知機は引き起こしました。

船頭として漁船に乗りこんだ"イワシの神様"こと清賢

長崎から九州へ、九州から日本全国へ

1950年になると五島列島の成功の話は長崎中に広まりました。
当時は1,000円札がない時代、100円札でいっぱいになったリュックサックを背負った船主が古野電気工業所の前に列を成したそうです。
月20台程度の生産能力では到底その需要には応えられず、1950年9月には神戸に魚探専門工場の阪神電気工業を設立、作っては列車で運ぶを繰り返したそうです。

こうして長崎一円に魚群探知機が普及、次第に佐賀、福岡、山口へと広がっていき、1952年には下関に営業所を開設。そして九州、西日本へと販売網を広げていきました。

1952年4月に開設された下関営業所

しかし東北の方になると話は別でした。
「インチキ業者は近くで売れないから遠くへ営業に来るんだ」と長崎から魚探を売りにきたフルノ社員に八戸の船主は言ったそうです。
当時の八戸で底引き漁業をしていた漁師は糸におもりをつけて水深を測って漁場を選定していたそうで、1つの漁場を選定するのに30分~1時間もかかっていました。
魚群探知機で測れば一瞬で分かるからと言っても、ここでもまた「そんなものはインチキだ」と跳ね除けられたそうです。

しかし、ここでも役に立ったのは実際に漁船に乗り、魚探のテストをくり返し続けた経験でした。
八戸でも船に乗り込み、魚探の使い方を教え、実際に漁に同行する。「魚が見える・海底が見える」ということを実感してもらう。そして大漁の実績も出て信頼される。
そうするとそれまで信用しようとしなかった他の船も近くに寄ってきて漁をするようになり、次第に八戸でも魚群探知機ブームが巻き起こりました。
このブームは北海道へと広まり、さらには日本全国へと広まっていくことになります。

北海道の拠点として1956年に開設された札幌営業所

独立メーカーとしてなぜ残れたのか

古野電気が魚群探知機を開発し、販売網を広げていく中、決してライバルがいなかったわけではありませんでした。
中には大企業、大手の電機メーカーも参戦、規模は生まれたての古野電気とは比べようがありません。
しかし清孝はこう述べたそうです。
「大手が東大出身のエリートを揃えて背広を着たとしても決して恐ろしくはなかった。理論は理解していても、魚を知らない、魚群探知機の仕組みを理解していても漁業そのものを知らないからだ。」
その通り、一時20社を数えた競争相手はわずか数年で3,4社ほどになったそうです。

フルノはお客さんに機械の箱を買っていただくんじゃない、効果を買っていただいているんです。」と常に清孝が口にする一言です。
1952年にフルノが発表した資料がまさにその言葉を体現したものでした。

古野電気工業所発の『魚探資料』

この『魚探資料』は魚探記録、魚種の判別、魚群の生態、さらには漁具の改良のためのデータ、近代漁業草創起の様々なデータの集大成だったそうです。
古野電気が魚探だけでなく他の漁労機器の開発にも着手、成功した裏にはこの積み重ねた現場のデータがあったことが大きな力でした。

さらに全国に営業所や出張所を設置していく中で、それぞれの所長には長崎時代からのベンチャー魂に満ち溢れ、どこにでも飛び込んでいくように鍛えられた社員が就任したことも大きかったようです。
サービス精神旺盛な彼らが漁船という特殊な市場に密着して営業・サービスを行う、これが古野電気を支える最大の活力であり、日本全国にかつて"インチキ"とレッテルを貼られた魚群探知機を広め、定着させていく原動力となっていくのでした。

漁師と二人三脚で74年。

執筆 高津こうづ みなと

この記事が参加している募集

企業のnote

with note pro

釣りを語ろう

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

- 海を未来にプロジェクト -