見出し画像

サーフィンに魅了され、大手企業を退職した男の話②

今日は前回↑の続きから。


東京⇒関西への転勤

東京で2年半程度働いたのちに、突然関西への辞令がおります。
これはサラリーマンの性。抗えません。初めての関西勤務に若干ワクワクでもしていました。ただ、近くにサーフィンができるビーチがない点だけ、悔しい気持ちでしたが。

関西サーフライフの始まり

毎週末四国へサーフトリップ

転勤先で一通り挨拶と引継ぎを受けたあと、脳内は完全にサーファー化されていたのでとりあえずどこでサーフィンするかを考えるようになります。幸い、関西サーファーの友人がいたので毎週末、金曜夜のシゴオワに徳島か高知に3-4時間かけて直行してました。ほぼ寝ずに土曜朝一でサーフィンをして、そのまま夜はキャンプ。日曜の昼過ぎまでサーフィンしたらまた4時間かけて帰る。ほんとキチガイみたいに毎週末サーフ&キャンプしてました。
だからこの頃は土日は基本シャワー浴びてないです。ナチュラル海水洗浄。
いつも翌週の水曜日くらいまで両耳から砂が出てきてました。

高知の生見サーフィンビーチ

冬の日本海でわからされる

関西サーファーならよくご存じかと思いますが、冬の四国は波がないことが多いです。その代わり福井、京都、鳥取などの日本海側で西高東低の気圧配置がバチコーンとキマると波が炸裂します。素晴らしい波に加えて水質も高いので随分とお世話になりましたが、サイズが上がりすぎるとかなりパンチの効いた波になるので油断禁物です。
ただ一番精神的に来るのは寒さです。一度雪の中で鳥取でサーフィンをして入水15分後には寒すぎて首が動かなくなりました。
自然の驚異を体感し「生」を感じる瞬間です。
おかげで寒さにはかなり強くなりました。

冬の日本海

コロナがやってくる

関西サーフライフが始まって数か月後、コロナの怪しい影が見え始め、あっと言う間に日本は緊急事態宣言に入ります。ちなみにコロナ患者が日本で確認され始めたときは、私は仕事で中央アジアに長期で出張に行っており、ロックダウン寸前だったところをロシア経由で緊急退避し日本に帰国しました。この体験もサーフィンと同じくらいスリルがありました。(日本に帰れないシナリオも面白いなとぶっちゃけ当時は思ってましたが)

帰国後、自粛モードを経てようやく外出とサーフィンが可能になった時期、リモートワークのどさくさに紛れて平日に四国に行き、海の家などからWi-Fiを見つけ仕事をする力技を身に着けます。これに味をしめた私は時間や場所に捉われずに生活する「ノマドライフ」「バンライフ」なる概念にどんどんと憧れが強くなります。

車は相棒

「自分がどこで何をするかをなぜ他人や会社に強制されないといけないの?
やるべき仕事をやっていれば、どこにいてもいいだろう。」
「オフィス出社を推す上司や先輩は、よくよく話を聞いたら家だと家族がいて集中できない、もしくは居場所がないから出社しているだけ。こちらは独身なので家の方がむしろ十分仕事が捗る。」

こんなことを、海を見ながら思うようになります。

そして仕事を通しどこまで自己満足を達成するかについては入社後に現実を見たのである程度割り切れるようになっていました。
会社で実現したいことを面接官が質問し、それに私が回答をし、その上で採用して頂いたのでやりたいことができると思って当然こちらは入社します。
でも実際はそんな都合よく毎日興味のある業務だけをできるわけもなく、くだらない資料作成や意味のない出張、上司への忖度、学生かと思うような業務外の接待アレンジなど、理解できないことが多かったです。
でも、当時は上司の「必ず成長するから」「意味のないように思えることも意味があるから」という言葉を信じて頑張っていました。
否定するつもりはないです。完全に間違っていたとは思っていません。
なぜなら、

「自分はこういう働き方をして人生を過ごしていきたくない」

と思う気持ちに気づいたからです。
「意味のなさそうなこと」をしていたおかげで、いろんな経験と世界を見せて頂きました。世の中にはこうやって仕事をしている人たちや仕事を創ろうとしている人たちがいるんだということを学べました。
今後の長い社会人人生で、自分がどういうモチベーションで仕事に向き合っていくのがベストなのか、何となく悟った気がしました。

悩みに悩む

実際に、当時私が主にやっていたのは営業職なのに入国ビザ取りでした。コロナ禍でも海外の発電所のプロジェクトは稼働しています。インフラを止めれば人々は生活できません。そのため日本から海外のお客さんへ自社の作業員を派遣する必要が常にあります。当日は目まぐるしく各国の入国制限が変更していたためその情報収集と必要書類集め・ビザ申請が私の業務にいつの間にかなっていました。マジでひたすらこれだけをやっていました。お客さんにアプローチし、見積を取り、受注するのが本来の営業の在るべき姿なのに、です。仕事というか、もはや作業でした。総合職という言葉は便利です。言葉が乱暴ですが「これ俺じゃなくても大学生のバイトでもできるよね」と本気で思ってました。だんだんと嫌になってきます。あまりにも自身のスキルが向上しない作業とダラダラと経過する時間に

「この会社にいてもこの会社で利用価値のある人間にしか成長しない」

と感じるようになります。給料や待遇よりも

「しっかりと個の自己成長を感じることができる仕事」
「多様性を尊重し自由に働ける環境」


これらの気づきは今でも自分の大きな財産であり、その後仕事を選ぶときの軸になります。

俺が仕事に求めるものってなに?

ついに限界を迎える

悶々とする日々が続き我慢の限界がついに訪れます。

「どう生きるかを会社に左右されたくない」
「自由に働ける環境に身を置きサーフィンに興じたい」

そう思い転職活動を開始し、最終的にまったく会社規模も畑も違う、ITスタートアップに営業職として転職することになります。
次の職場を会社の人たちに伝えたときは、思い切った決断だと半分引かれる感じで驚かれました。勝手な印象ですが大企業で長く働く人は安定志向の方が多いと思います。そのような考え方や個人的事情のある人からしたら、自由と言えど待遇を捨てて数年後どうなっているかわからないスタートアップに飛び込む私の精神状態は理解できないと思います。

前回の記事で述べましたが、もともと私は学生時代に一人でバックパッカーし世界を周り、リスクをリスクとも思わず(おバカ?)好奇心のままにまずは挑戦するような性格でした。周囲の人間はそれを私の長所とも言ってくれてました。
しかし、大企業で働くうちに、「周囲とは異なり既定路線や定石と言われるものから外れればその先の人生が不安で仕方ない」こんな考えが潜在意識の中に刷り込まれていました。

ですので、この退職の決断も迷いがあったわけではありません。
正しい意思決定なのか自分の中でかなり戦いました。
自分を知ることに多くの時間をかけ最終的に以下の思考回路に辿りつきます。

①人生は選択の連続。何が正しいのかは誰にもわからない。
②だからどれにしようかどれだけ時間をかけて迷っても仕方ない。
③大切なのは選んだ選択肢が正解になるように後から努力すること。

どれが正解なんて誰にもわかりません。複数の選択肢の先にある将来の不安を想像し足踏みをして何も変わりません。一番重要なのは自分で考え責任をもって決断し、あとはそれが正しかったと言えるように頑張ることだと思います。というか、自分でこれ以上ないくらいに考え抜いたと言える決断をすれば誰かのせいにしたり言い訳もできなくなるので、あとは頑張るしかなくなります。

私は幸いにもその決断を後から正しかったと納得できるくらいに努力できたので、今では大きな決断をするときは昔ほどビビることはなくなりました。他人から見ればジェットコースターのような人生を送っていると思われがちですが、私からすればこれが本来の私らしい生き方で自分は最終的にどうなるのかを考えるととてもワクワクします。(なぜ他人目線なんだという感じですが)

そんなこんなで、様々な悟りを経て私は大手企業を退職しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?