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デザイナーの社会人遍歴 其の7 26歳 人生の分岐点に立つ。編

其の① 若干二十歳の俺 VS ブラック印刷会社編

其の② 古着屋で働きたいよ!編。~序章~

其の③ シルバーアクセ屋で販売経験をGETせよ 編。

其の④ 遂に古着屋で働くよ! ~前編~

其の⑤ ~遂に古着屋で働くよ! ~急遽中編~

其の⑥ ~遂に古着屋で働くよ! ~後編~
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勤めていた古着屋 JET RAGが閉店。最後の最後までやり切ったものの、目の前の道が急に消えてしまい、何者にもなれていない26歳の俺。
俺はこれからどうすればいいんだ........…



古着屋挨拶周りへ。

古着屋 JET RAGが閉店して、店内をスケルトン状態にまで戻した。すべてが終わってからドレッドさんと集合して、お世話になった古着屋さんを1日ですべて回った。皆さんに「本当にお疲れさま」と「これからどうするの?」優しい言葉をいただいた。

その中のひとつのお店のオーナーさんからとあるお誘い。


オーナーさん「なんか次が決まるまで暇やろ?」

「暇ですねぇ… どうしましょ…」

オーナーさん「サッカーしてたよね? 最近、地元のメンツでフットサル始めたから来ない?」

「是非!めっちゃ行きてーです!!! (涙」


こうして週に1回~2回、フットサルをしてその後にみんなでファミレスへ。オーナーさんの地元のお友達方にも可愛がってもらって、それから数年は地元メンバーの一員みたいになった。皆さんの結婚式にも呼んでいただけるレベルで。

JET RAGが閉店して会社を畳むと宣言されてから、閉店するまで7ヶ月くらいあったわけだが、そのたっぷりある期間の間、次をどうするかというのを考えることができなかった。どこかで現実味の無い日々、終わる感じがしない気がしていたんだろう。

このフットサルに誘っていただいたのは、本当に良かったと後からでも思う。孤立せずに社会と繋がっている。そんな感覚を持たせてくれたからだ。小学校3年生から始めた大好きなサッカー。サッカーで体を動かし、汗をかく。その時だけは、このモヤモヤした気持ちを吹っ飛ばしてくれた。




30歳までに何者かになれ。

18歳で父を病気で亡くして、社会に出てからを見守ってくれたのは母だけだ。この社会人遍歴 其の① VS 印刷会社編 にて最初の就職先を辞めた後に、母にこう言われた。

「男だから今はまだいい。30歳までは、なりたい者になれるまでもがいていい。でも30歳を過ぎて何者にもなれていなかった時は、やりたくない仕事でもやらないかん。」と。

現在26歳。あと4年で30歳。俺は何者にもなれていない。

根が真面目なので焦りが募る。

そう

────── 根が真面目だから  ────── トゥクン




26歳。人生の分岐点に立つ。

この時の感覚をよく覚えている。なにか他人事で客観的に自分を見ているような感覚。「お~ 分かりやすく人生の分岐点に立ってるな~」と。

26歳という年齢。まだ未経験の職でも若さで雇ってくれる所はあるだろう。これが30歳を過ぎれば経験値が必須になる。即戦力でなければならない。40歳になった今ならもっとそう感じる。

社会である程度揉まれた俺は、ブラック印刷会社を辞めた21歳の時とは違う。冷静に「自分がやりたいこと」そして「今の自分にやれること」この2点で色々考えた。


自分がやりたいこと

デザイン職・洋服関係

今の自分にやれること
(多少なりとも)デザイン・販売スキル・小売業の色々



ここから導き出した道は3方向になった。

相変わらず絵が雑


① デザイナーに復帰

② 自分で商売(洋服関係)

③ 興味は無いけど安定した仕事


正直、③は眼中になかった。中学生の時からなりたいと願ったデザイン職。やはりデザインの道に戻りたいと考えるようになった。しかし新卒で入社した印刷会社での経験は、1年数ヶ月。しかもそれから5年が経過している。もうどこも経験としては見てくれない。試しに数社 履歴書を送ったが、すべて書類審査ですら通らない。でしょうねって感じだ。


ここでひとつ思いつく。②の自分で商売だ。JET RAGで4年働き、考えられない量のTシャツをこの目で見てきて、どんなデザインが売れるデザインなのかというのを見てきた。そして自分でTシャツのデザイン~デザインデータ制作までができる。

こ れ だ

Tシャツ屋を開業しようと思い立った。なんかワクワクした。なんの根拠もない「いける!」という自信でいっぱいになった。

シルクスクリーンの印刷まで自分でやればコストを押さえる事ができるし、ロットの問題も出ない。シルクスクリーンの印刷機を探す。そこで出会ったのがこれだ。

引用元 amazon
https://onl.bz/dQ4RP6s

個人でTシャツにオリジナルのデザインをシルクスクリーンで印刷できるTシャツくんという商品。現在は、ネットで調べても同じ物は出てこなかったが、このTシャツくんの【業務用4版多色刷り】というのを見つけた、価格も15万程度で手が出る価格。

最初はTシャツ無地ボディを使うとしても、それでは勝てないと思った俺は、Tシャツの生地・シルエットからオリジナルで作りたいと思った。調べると車ですぐ行ける所に、Tシャツを作っている会社(工場)を見つけた。

この時は、電卓を叩きまくった。
そして母にこの大作戦を打ち明けた。

父と母は商売人だ。町の小さな薬局だが30年やってきている。(今もまだ母ひとりでやっているので40年以上やっている)お~!いいね!って感じではもちろんなかったが、やってみなさい。っていう感じだった。

よし。俺はやるぞ..…と決意した。

もちろんいきなり軌道に乗る訳もないので、とりあえず求人は常にチェックしていた。




運命の求人に出会う。

そんな中でひとつの求人に出会った。

服飾雑貨メーカーのデザイナー求人。

帽子をメインに作っているメーカーで、新たに鞄を始める為のデザイナー募集だった。しかも、こんな所に服飾雑貨のメーカーなんてあったんだという場所にあった。

自分でTシャツを作って商売すると決意したはずなのに心が揺らぐ。滅多に巡り合えるような求人ではない。取り合えず受けるだけ受けてみるか。受けるのタダやし。

書類審査は無く即面接。面接当日、会社の規模は小さい。従業員数10人もいない零細企業。面接官も自分よりちょっと上くらいの若さ。

職歴を追って説明していく。するとこの面接官がJET RAGに食いつく。「 JET RAGにいたんだ!?  JET RAGのスタッフがウチに面接来てくれるなんて。」という謎の逆転現象が起こる。


押しのポイントは以下だ。

・学校を出て印刷会社にもいたので、グラフィックデザイン(平面物のデザイン)ができる。

・古着・アクセサリーとファッションの世界にいたので、業界的にすんなり入っていける。

・JET RAGにて、自社カンボジア縫製工場でオリジナル商品を作る為に、洋服の商品企画デザインを行っていた。


ノリノリで食いつく面接官。正直、手応えしかなかった。

社会に出て6年。まだまだ6年ではあるが、ある程度 社会の嫌な部分も見てきた。この零細メーカーは確実にブラック体質だろうと直感で感じていた。

しかし、古着屋で働く時にうまくいった方法で、デザインの世界に返り咲こうと思った。アクセサリー屋で経験を積み、自分の理想に近い場所にステップアップできた成功体験。

どれだけブラック企業でも覚悟の上。30歳になる直前の29歳後半まで、ここで商品企画デザインの経験値を積むことに決めた。

この求人とこのタイミングでの出会い。なんとなく直感だが、神様か?18歳で亡くした父か?が、Tシャツで開業しようとしていた俺に「そっちの道はやめとけ」と言われた様な気がした。


服飾雑貨のメーカーに、デザイナーとして採用された事を母に電話で報告した。「良かったね~」くらいの感じだったが、電話を切る為に、電話を耳から離そうとした時に電話の向こうから「しゃぁっ!!!」という声が聞こえた。笑

散々、心配かけてるな俺は。

俺は、三叉路に分かれていた人生の分岐点の【デザイナーに復帰】の道を選んだ。

21歳の時に母に言われた、30歳までは何者かになる為にもがいていい。という言葉。


何者か。 俺はデザイナーだ。


と堂々と言える人間になる為の、最後のチャンスに挑む。



次回


安西先生… デザイナーに戻りたいです.…
プロダクトデザイナー 下積み時代編。



に続く。



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