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デザイナーの社会人遍歴 其の6 ~遂に古着屋で働くよ! ~後編~

其の① 若干二十歳の俺 VS ブラック印刷会社編

其の② 古着屋で働きたいよ!編。~序章~

其の③ シルバーアクセ屋で販売経験をGETせよ 編。

其の④ 遂に古着屋で働くよ! ~前編~

其の⑤ ~遂に古着屋で働くよ! ~急遽中編~

古着屋編  最終章となります。


福岡古着界の雄 JET RAG、株式会社 ジェット ラグの正社員となった24歳の俺。

大好きなアメリカ古着と古着好きのみんなに囲まれて楽しくやっていた。しかし、この楽しい日々も終わりが近づくのだった。



古着ブームの終焉?

80年代から‟アメリカ古着”という文化はあったようだが、自分が知る中では、第二次古着ブームの最後の方に古着業界に飛び込んだ。ほんの3年前程には、福岡の大名というエリアに全国展開しているSPI〇NSがOPENして、土日に行くと中で身動きが取れないくらいお客さんが入っていた。そこに専門学校時代の友人が1人働いていたのでよく行ったものだ。古い街である大名エリアには、古民家などに若手が独立して続々と古着屋がOPENしていて若者で溢れかえっていた時期だ。

しかし、その3年後のこの頃には明らかに古着ブームが去っていくのを確実に感じていた。他店の状況を聞いても非常に厳しい状況。個人店のオーナーさんと話すと「どこのオーナーさんも鬱っぽくなってるよ…」と。

JET RAGも同様、少しずつだが確実に売り上げが減少していた。

ファッション業界は水もの。流行が終われば水が流れるようにあっという間に終わってしまうのだ。だから生き残るには、フットワーク軽く、その時の流行にしっかり乗りながら、商売をしていかないといけない。

こだわって死ぬか。こだわりを捨てて生き残るか。なんて話をこの時よくしていたのを思い出す。



打開策を講じる。カンボジアに工場を

この時期、全国展開している大型店は、古着のリメイクに力を入れだした。この時期に大型店の古着屋に行っていた方は分かるはずだ。JET RAGも日本に通称「アトリエ」という呼び名で、服飾の学校を卒業した女の子が3人で、姉妹店のレディース古着屋 Tiger RoseとGypsy Queenの商品の為に、リメイクやサイズ直しなどをしていた。

そこで社長は大胆な打開策を打つ。カンボジアに洋服の工場を作っちゃった。当時は東南アジアでの物づくりが良いと言われ始めた最初の頃。縫子さんを確保出来ても、生地や部材は中国から入れないと現地調達はほぼ出来ない。

しかし、中国からカンボジアに生地や部材を輸入するには資格が必要だという。社長は自分自身で、半年くらい勉強してこの輸入資格を取った。誰かにやらせるのではなく、自分で取るという姿勢に心を打たれたものだ。

社長と長年社長の右腕として動いてきた人、リメイク系を仕切っていた責任者やそのタイミングでカンボジア行きとして入社したスタッフがカンボジアに移り住んだ。一時帰国の時に色々話を聞いた。世界遺産 アンコールワットに行った話や写真も見せてもらった。

引用元 HIS
https://www.his-j.com/theme/world-heritage/asia/cambodia/angkor/


カンボジアという国、合う人は「もう日本に帰りたくない」となるし、合わない人は「もう二度と行きたくない」となるようだ。お金を持ってそうな外国人を見ると、地雷で足が無くなった子を見せてきてお金を貰おうとする。人によっては受け入れがたい光景かもしれない。あと年齢を重ねていても若い女性にめちゃくちゃモテるそうだ。まぁお金&日本国籍が目当てな訳だが。

そこで古着リメイク+新品の洋服も作るという事になり、JET RAG分は、社員であるドレッドさんと俺がやることになった。ドレッドさんも服飾の専門学校を出ており、自分も洋服ではないがデザインの学校を出ている。商品を企画して、ドレッドさんと話し合い、手書きでイラストを書いて生地や仕様詳細を書く、手書きの仕様書を作っていた。

引用元 ESMOD BLOG
https://www.esmodjapon.co.jp/blog/fashion-job/12543/


ドレッドさんの企画デザインで一番思い出に残ってるのは、メンズのフリルシャツ。70年代のアメリカ古着であるクセ強アイテム。これをシルエットを綺麗にして、あんまり出ないブラック等のカラーを作った。

自分が商品企画した中で、一番売れたし思い出に残ってるのは、STPの総柄サーマル。

60's~70'sのSTP総柄コットンジャケットやTシャツ。昔から高値が付くヴィンテージだ。

引用元 JAM
https://jamtrading.jp/fs/jamtrading/eva000271


これを古着っ子みんな大好き!なサーマルに落とし込んだ。

サーマル生地にSTPの総柄を、水性インクで染み込みプリントにした生地を作って仕立てる。STPのロゴは、ガッテンお任せください!と自分で作った。

引用元 Share
https://share-usa.com/blog/2016/11/25/22737


STPの総柄サーマル。

これが人生で初めて自分で企画デザインして商品になったもので、それが売れるというのがとても嬉しかったのを覚えている。

これは、自分でも購入させてもらってTシャツの下に着まくった。着まくって破れたりしてきてたが多分実家のどこかにまだあるだろう。

工場も販売もなんとか光が見えてきていた。個人店はこの時期、ラルフローレンやRRLなどの新品を仕入れて強化していた。



花火大会の思い出

JET RAGは、福岡のけやき通りという通り沿いの路面店。JET RAGがOPENした当初は、高級ブティックが立ち並んでいる通りだったらしい。

引用元 福岡てくてく
http://fukuokatekuteku.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-4f31.html


この福岡のけやき通り。映画 悪人のロケ地になり、作中の中でも出てくる。

引用元  フクリパ
https://fukuoka-leapup.jp/entertainment/202011.161
引用元  フクリパ
https://fukuoka-leapup.jp/entertainment/202011.161


その先には大濠公園という有名なでっかい公園がある、夏には福岡の3本の指に入る大規模な花火大会が行われていた。

引用元 リバティ
https://officeliberty.com/archives/6731

この日ばかりは、店の前が尋常じゃない人通りになる。普段出さないが、表にラックを出して、超格安のSALE古着を売りまくる。向かいのケンタッキーからは、普段そんなに匂いがしないのに、この日ばかりは、外にガンガン良い匂いを出しまくる。まさに祭り。花火が始まると店前の通りはシーンとして、スタッフみんなで外に出て花火を見たものだ。

因みに、同じけやき通り沿いにあった古着屋のオーナーが、別の古着屋女性オーナーを刺殺するという事件も起きた。比較的近隣店舗だったJET RAGにも、幾度も警察が訪れては話を聞かれた。もちろんしっかりニュースにもなった。金銭目的だったらしい。この時の古着屋個人店のオーナーが、どれだけ追い込まれていたかが分かる事件だった。暗い話は深堀せずにこの位にしておこう。



韓国にアクセサリー仕入れへ

これまた姉妹店のレディース古着屋は数年前から行っていた、韓国アクセサリーの販売。もちろん高品質ではないが流行をうまくおさえていて安価。これをJET RAGでもやることに。ピンチの状況、やれる事はなんでもやるしかない。これも前職がアクセサリー屋だった俺が仕入れに任命された。

本当は、古着の仕入れでアメリカに(自分の金ではなく会社の金で)行きたかったから、それが可能そうな中堅古着屋がよかったのだが、これは叶わなかった。

韓国のファッションの街と言われる東大門/トンデムン。巨大なファッション系の問屋街がある。

引用元 コネスト
https://www.konest.com/contents/area_detail.html?id=2


ここにスーツケースを持ってまわりまくるのだ。アクセサリーをペンチとかで最終形に組む作業をしている人に話かける。基本はここで仕入れる商品と数量を決めて、決められた最小ロット数以上の注文数で後日輸入するのだが、1店舗分の仕入れなので、1アイテムにそんな数量はいらない。

「アンニョンハセヨ~!(指をさして)This! 30pcs!」

韓国女性「Haaan? No!」

「サンプル!サンプル~! ハシムニカよ~♪」

韓国女性「Sample ?  nnn…  OK 。」

「カムサハムニダだよ~♥」

このように、サンプルで購入して後日日本から正式注文入れるという体で、少ない量を仕入れるという強引な技で仕入れるのだ。早朝から夕方まで歩き回り仕入れまくる。夕方に一旦ホテルに帰り、その日仕入れた商品のインボイス(海外から商品を輸入する際に税金を払う為、何がいくらで何個という一覧表を作らなければならない)を作る。20時くらいに夜メシを食いに行き、22時くらいからOPENするファッションビルも回る。

24~5歳という若さだったが、めちゃくちゃハードだった。

この韓国アクセサリーは結構売れた。アメリカ古着屋のガラスケースに並ぶと結構良く見えるもんで。という事で韓国へのアクセサリー仕入れは、3回くらい行ったかな。



JET RAG 終焉への最初のほころび

ある日、JET RAG ロサンゼルス本店で雇っていた警備員から訴訟を起こされたという話が入ってきた。ちょっとネットで調べるだけでも、残業代未払いによる集団訴訟で10何臆とか出てくる。流石、訴訟大国とでも言うべきか。
JET RAG ロサンゼルス本店でも、残業代未払いによる訴訟で敗訴。億単位の支払いが生じた。その敗訴をきっかけに、ロサンゼルスにあるJET RAG / SLOW / 古着卸倉庫、カナダにある古着卸倉庫のすべてを売却するという事態に。

今もロスにJET RAGはあるようだが、これは経営者が別になっているということだ。これでロスの人気店の売り上げ、一番大きな痛手は、ロスとカナダにある古着卸倉庫を失ったこと。中編で書いたが、この2つの古着卸倉庫の1st Pickは常にJET RAGが行ってきた。それによって良質な古着を集める事ができていた。それを失ってしまったのだ。

古着卸倉庫を失ってからは、入荷数は減りながらもアメリカにいた社長の右腕的存在の人が搔き集めて、なんとかかんとか商品が入荷していたが、あきらかに質が落ちているのは明白だった。

ただでさえ古着ブームが終わり厳しい状況。ブームが去っても古着を求める人は、流行ではなく好きな人なので見る目も厳しい。 ただのドレギュラーの古着なんて、どんだけ安く出しても売れないのだ。

セールコーナーの範囲を広げたり、週末限定で袋詰め放題1000円コーナーを作るなど、安売りに走るしか無かった。こうなると、どんどん状況は厳しくなっていく。




orSlowの社長登場。

アメカジファッションが好きな方だったら多くの方が知っているであろうorSlow。そのブランド魂の根底にはヴィンテージデニムがあるブランドだ。

引用元 orSlow ブランドヒストリー
http://orslow.jp/brandstory/


JET RAG社長が、このorSlowの社長さんと知り合いで、今のJET RAGのお店を見て、感じる事、改善点があれば意見を欲しいとお願いされて店にいらっしゃった。現状やなんでこれはこうなってるのか等、色々話をしたと思う。なんか1個、反発したような意見を言った記憶が薄っすらある。(生意気ですみませんでした…)

それでなにかが好転したという訳ではなかったが、こういう方とお話をさせていただいたのは、凄く良い経験だったと思う。




カナダ倉庫で働いていた日本人登場。

JET RAGがカナダのトロントで運営していた古着卸倉庫。この倉庫で働いていた日本人が来るという。(以下 カナダ店長)この人は関西の方で自分の3歳くらい上。日本にいた時はセレクトショップでスタッフをしていたとの事。社長の命を受け、期限半年で店を立て直せ。という条件でやってきた。

カナダ店長はがっちり関西弁で明るく良い人だった。でも、急に店にやってきて簡単に売り上げ回復とかできるかよ、ケッ。という気持ちも持ち合わせていたのが正直な所だ。

それまではほぼすべてが2段ラックで、古着でギシギシに埋まっていた店内。これをすべて1段にして、服と服の間もゆったり余裕を持たせる。ハンガーはすべてウッドハンガーを使用。いわゆるお高めなセレクトショップの魅せ方に変更して、しっかり接客を行っていくという方針だった。

こういった魅せ方ですね。

引用元  OEN STYLE DEPOT.
https://www.ponkotsu-hitomishiri.com/entry/selectshop_1/


俺はこの方針に意見した

「これではただ単に店内在庫金額が半分くらいまで下がって、確実に売り上げが下がる。このやり方をするなら、1商品の売価が今の倍以上付けれる商品で埋めて店内総在庫金額が下がらない様にしないと。」と。

しかし古着卸倉庫を失い、良質な古着の入荷が出来なくなってしまっている。カンボジア工場でガンガン新品を作るにも、まだまだ手探りの様な状況で、そこまでの生産力は無かった。

しかし、このカナダ店長も半年という制限付きで来ている。もう自分の信じる道を突き進む以外無かったんだろうなと後では思えるようになった。

そして50坪ある店内が、すべて見渡せるほどのスッキリした店内。いままでこちらからのグイグイ接客はなかった店が唐突にグイグイ接客してくる。引いてるお客さんもいただろう。その結果、その月は見事に前月売上の半分の売上まで下がってしまった。その売上では家賃+人件費のみで、既に赤字なのが分かるレベルまで落ちてしまったのだ。そのまま一気に売り上げは下降していく。半年を待たずに、カナダ店長は解雇となった。

その後、ドレッドさんと二人で、ちょっとずつ2段ラックを増やして、できるだけ商品を出せる様に戻していった。店をまわすには3人必要という事で、大阪の古着卸の会社に勤めていた、K村君がアルバイトとして入った。

そして、レディースコーナーもあったので、女の子のバイトも引き続き募集。

俺とドレッドさんとK村君の3人で、閉店後の22時頃、店先でコンビニビールとつまみで酒盛りしていると、小柄な女の子が「アルバイト募集してるんですか?」と聞いてきて「女性スタッフ募集してますよ!」というと面接して、あっさりアルバイト入社。明るくて凄く良い子だったこの子も、SPI〇NSでスタッフをしていた。(元SPI〇NS多すぎ)

さぁ、4人でなんとか立て直そう...!



JET RAG 終焉の決定打

JET RAGが閉店まで追い込まれた決定打となったのが、カンボジア縫製工場が乗っ取られるという事件。社長が3ヶ月程度、日本に帰国している間に、現地カンボジア人が経営者を自分に変更。実質、工場を乗っ取られてしまったのだ。日本ではそんな事は不可能だと思うが、発展途上国では法が整備されていないのだろう。

結果として、この縫製工場を取り返す事は出来なかった。

これが社長の最終的に店を閉めるという決断に繋がったと思う。

間もなく日本にある、JET RAG / Tiger Rose / Gypsy Queenのすべての店舗を閉店して、会社を畳むことが言い渡された。




全身タトゥーまみれの元店長がJET RAGを引き継ぐ?

俺が入社する3~4代くらい前の元 JET RAG店長。その時は中古ハーレー屋を経営されていた方。どうやら閉めるなら自分にJET RAGを売って欲しいとなり、社長も承諾して話がまとまったようだ。

この元 JET RAG店長。身長は190cmくらいあり、ガリガリに細く頭は坊主。全身がタトゥーで埋め尽くされている。タトゥーは、性器にまで入っていて、もう入れる場所が顔以外無いと言っていた。

この元店長が店にやってきて、自分とドレッドさんに残って欲しいという話をされた。現在の給与を聞かれて、それ以上は絶対に出すからと。

自分とドレッドさんはこの話に乗る気だったが、この元店長と社長が揉めた。「あいつが俺と同じ土俵で駆け引きするなんて、100万年早いんだよ」と激高。あんなにキレているのは後にも先にもこの1回しか見た事がなかった。

そして、この話はお流れ。閉店SALEを開始することになった。

先にTiger RoseとGypsy Queenを閉店。古着在庫が多かったJET RAGは、出来る限り売り切ってから閉店という流れ。不思議と気持ちは腐ることなく、「お世話になったお店。最後にできるだけ現金化してあげないと」という気持ちが強かった。それだけこの期間が楽しかったのだろう。

アルバイトのK村君と女の子スタッフは、職を決めてから先に退職してもらった。残った社員の俺とドレッドさんの2人で、後は最後まで走り切ろうと決めた。





JET RAG 卒業アルバム

先に閉店したレディース古着屋 Tiger RoseとGypsy Queenの女性スタッフ達が皆で、思い出の写真やお店の写真、スタッフの写真をいっぱい撮影して、それも切り貼りして、全スタッフに1冊ずつ卒業アルバムを作ってくれた。

これ凄く嬉しくて、今でも大事に持っている。

全15~20ページくらいあるが、一部をご紹介しよう。

Tiger Roseのページ
JET RAGの商品が乗ったページ

最後の画像に注目して欲しい。

Levi'sの一番最初に作られたジージャン 通称 1st。
しかも第二次世界大戦中に作られた物で、戦時中で貴重な生地や金属を簡素化させた通称「大戦モデル」。ヴィンテージ好きなら誰もが知っている、そんなお宝。

これも元々そんなに高値は付けておらず、8万くらいだった記憶。その価格で売れ残り続き、そこから閉店SALEで50%OFFになるまで残り続けた。買った方は、これを3~4万で手に入れてる。今では車買えるくらいの価格になってるんじゃなかろうか。

この時がいかに古着ブームが過ぎ去っていたかをわかってもらえると思う。

これは俺が買っておけばよかったと悔やみ続けている(泣

閉店間際 26歳の自分。 若いww 眉毛細いしw


この手作り卒業アルバムは、一生物です。




2人でJET RAGをスケルトン状態に戻す。

閉店SALEの勢いは凄く、めちゃくちゃ売れた。社長がやっぱり閉店するの辞める?って言うくらい。そんなこんなで閉店SALEは半年くらいやった。(やりすぎ 笑)    流石に半年もやれば、もうまともな商品は残ってないし、皆、慣れてしまって客入りも減り、売り上げも厳しくなっていた。最終的には、外から「閉店セールいつまでやってんのこれw」みたいな声が聞こえてきて、この辺が潮時かなと思ったものだ。


そして、JET RAG JAPAN 閉店。


歴史のある老舗古着屋の最後のスタッフになってしまった。もう残ったスタッフは、自分とドレッドさんの2人。2人で店内をスケルトン状態に戻す。

とにかく錆びた金属が多い店内。 天井に敷き詰められた、銃で撃ちまくられた旧車の錆びたドア達。そしてそれを固定しているボルトも錆び錆び。これを全部取るのは非常に苦労した。このドアは、ドレッドさんが社長から格安で買い取り、ドレッドさんの実家の倉庫に2人で運んだ。運んだ礼に、ドア1枚貰って実家に置いていたが、汚すぎて母に「あれいい加減捨てていい?」と言われて捨てた。

そして次に大変だったのがフィッティングルーム。ここもすべて鉄で組まれており、入り口のドアは同じく、銃が撃ち込まれた旧車の錆び錆びドア。普通に解体するのは不可能だったので、人生初のいかつい電動ノコギリで切りまくった。

引用元 工具男子
https://electrictoolboy.com/media/15984/


始めて使ったのに適当にやったのだが、後から考えるとこれマジで怪我しなくて良かったな…と思っている。刃が当たる最初に弾かれたりする事もあるらしくて…

そしてこの時、鉄が高く売れてた時で(みなさん覚えてるかな?)ガードレールや鉄線が盗まれたりしてた時。鉄の処分するものはすべて売りに行き、それ以外は何十往復もしてゴミ処理場に持っていった。1週間~10日くらいの期間で、素人2人で店内をほぼスケルトン状態に戻した。

最後に、何も無い広々した店内でサッカーしたな 笑




3人で九州古着PICKの旅へ

最後まですべてやり切り、JET RAGの社員としての自分が終わった。JET RAGのハイエースを借りて、自分とドレッドさんとK村君の3人で、九州内の古着屋、フリマ、リサイクルショップを調べて、九州古着PICKの旅に出た。全員なかなかの量を買い込み、3人分でハイエースの2列目以降が結構パンパンになるレベル。古着屋らしい最後の卒業旅行といったところか。

そして、JET RAGが閉店して3ヶ月後くらいに社長から電話があった。


社長「アクセサリー屋にいたよね?汚いパールを綺麗にする方法知ってる?」

「いや~ 流石にパールを綺麗にする方法は知らないっすね…」


何か次にやる面白い事を見つけたんだろうな。フフフと思った。これが、JET RAG社長と連絡を取った最後になった。今でも元気にされている事を願う。




古着屋編あとがき

ここで閉店していなかったら、居心地の良かった JET RAGを自分で辞めるという事はできなかったと思います。そしてそのまま30歳を過ぎていれば、古着屋を自分でやるという道しか残されていなかっただろうとも思います。その時が来れば自然とそっちの道に導かれる感覚。人生というのは面白いもんですね。



次回から新章突入

目の前の道が急に無くなってしまい、何者にもなれていない26歳の俺。


安西先生…!!  デザイナーに戻りたいです..…
26歳  人生の分岐点に立つ。編


に続く。




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