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文章を書くことについて

新年あけましておめでとうございます。

 さて、めでたく2023年が開幕したわけですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はポメラDM250という謎の機器を使って現在この文章を執筆しております。

 気になる方に向けて説明すると、このポメラDM250というのはポメラニアンを250頭集めて生成されたゆるキャラ的なキメラのような生物―――ではなく、文具メーカーのキングジムから発売されているデジタルメモデバイスのことです。まあググってもらった方がわかりやすいかなと思います。というか普通にリンク貼った方がわかりやすいですよね。

 このポメラは簡単にいえばワープロみたいなものです。ただ文字を入力することだけに特化しており、電子機器であるにも関わらずインターネットにアクセス出来ないという、時代にある意味逆行しているような特色を持っています。

 なぜ今回僕がこのポメラを購入したかというと、理由はいろいろあるのですが、まず前回のポストで雑に触れたNetflixの『ウェンズデー』というドラマで、主人公の女の子が(ていうか主人公の名前がウェンズデーなんだけど)タイプライターを使って小説を執筆しているシーンにモロに影響を受けたから、というのがあります。

 このウェンズデーはSNSを好まない性格で、その代わり一日一時間自前のタイプライターを使って小説を創作することを日課にしており、それを見た単純な僕は「ママー!!ぼくもアレやるーー!!」となってしまいました(なんだコイツ)。

 もともと『ウェンズデー』を観る前から「書く」作業に集中できる環境を整えたいとは考えていましたが、スマホやパソコンのアプリでそういうライティングツールを探してもいまいち個人的に使い易そうなものがなく、たまたまネットで目にしたこのポメラDM250というのが集中してものを書くのにかなり良さそうだということで購入に至りました。

 このポメラDM250、ただ書くためだけに特化されているのは良いんだけどいかんせん値が張るんですよね。なんか発売当初の約半年前には6万円ぐらいしたらしいんだけど、今は少し値下がりしてAmazonで4万円弱になっています。いやそれでも十分高いよ。ここまで強気価格設定だと「あんまりカスタマーをナメるなよ?」という謎の対抗心が去来してきます。
 しかし幸か不幸か僕はお金をあまり浪費する類の趣味を持ち合わせておらず、わりと淡泊な人生を送っているので懐にはまあまあ余裕があります。ということで自分へのクリスマスプレゼントということにしてポチりました。このポメラDM250が無味乾燥な人生に少しでも彩りを与えてくれることを願います。


 僕は文章を書くのが好きです。文章を書いている時間だけは、誰にも精神をかき乱されることなく心穏やかに過ごすことが出来ます。
 とか書いていたら急に親に呼び出され、年賀状の作成を手伝うよう依頼されました。ふざけるな何人たりとも俺の執筆を妨げる奴は許さん、という流川楓ばりの反発心は芽生えたものの、拒否したところで延々と依頼の声がくりかえされるだけなので渋々執筆を中断して馴れないExcelを操作しながら親の会社の年賀状作りを一部請け負うことにしました。というわけで一旦離席します(いちいち報告する必要あるのか)。
 はい、ということで前行を書いていた時から30分ぐらいが経過したわけですが今はもう年賀状関連の作業は終わり、再びこの記事を書いています。やはり実家暮らしは精神をかき乱されやすいのが難点です。文章を書いていてもやっぱり親とか他人の介入がなされると心が乱れます。せっかくリズムに乗って筆が進んでいたところだったのにすべてが水泡に帰したような心持ちがします。

 再びポメラの画面に向かい合って文字を打ち込んでいると自然と心が落ち着いてきました。やはり文章を書くことによって得られる精神的な効能……誰かと直接肉声を使って会話したり、コミュニケーションを図ったりすることでは得られない充足感というものが、確かにそこにはあります。

 これは生来的な気質にもよるのでしょうが、僕の場合話すという行為における言葉の装填速度と、書くという行為における言葉の装填速度には如実な差異があります。
 普通の人ならば話すときにすらすら言葉が出てくるのでしょうが、僕の場合は話すときに何の言葉を選択すればいいのか逡巡しすぎた挙げ句、結局テンプレートのようなありきたりなワードを繰り出してしまい、毎回ボキャブラリーが貧弱で短文しか発言できない哀れな人間に成り果ててしまう、ということがよくあります。
 これは僕が自分の声に尋常ではないコンプレックスを抱いていることや、厭世的な価値観を持っていることなどが複合的に影響して誘発されている事象だと自分では思っているのですが、今回その辺のことを補記するとまたありえないぐらいの文章量になってしまうので割愛します。また時間の余裕があるときに改めてじっくり仔細に書きたいと思います。

 まあとにかく、僕の性分的には今のところ話すより書く方が楽だ、ということです。話すよりも書く方が個人的には正確なニュアンスでものごとを伝えられるし、思っていることをダイレクトに相手に届けられるような気がします。といっても、冗長になりすぎて簡潔にまとめられていないので、読む人が読んだらしびれを切らして読むのを中断してしまうかもしれないな~、ということも思います。
 ただ、僕はこのような文字数がほぼ無制限で打ち込めるフィールドの方が性に合っているので、こうして気の向くままに文章を書けることがありがたいし、脳内にある感情や情報を出来るだけそのままアウトプットしたいので「長えよ!ここまで読んだ時間で『ぷよぷよ』を改造してぷよを人間の排泄物に変換した状態でメルカリに出品することだって出来たし、Youtubeで屁の連発数ギネス記録に挑戦する動画だって投稿できたわ!」と嘆いている読者の皆様には申し訳ないけど(勝手に奇特な読者像を設定するな)このスタイルでやらせていただきます。

 とかなんとかいっても流石に長いですよね。ここまで読んでいただいた読者の皆様、そして今までにこのnoteのアカウントで更新される必要もないのに必ず1週間に1回更新されてきた記事を読んでくださった皆様には本当に感謝しております。やっぱり文章というものは読まれるという行為によって初めて文章としての価値を発揮しますからね。ありがたい限りです。願わくば本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 ちなみに今回「ですます」調の敬体で文章が構成されているのは、つい先ほど読み終えた『苦手から始める作文教室』という本に「書くときは毎回決まった型に囚われるのではなく、ある程度変化をつけて書いた方が良い」ということが書かれていたからです。そこで今までの記事は常体で書いていましたが、今回はあえて敬体にしてみました。
 この本の著者である小説家の津村記久子さんはこうすることで独自の癖がつくことや、スタイルが凝り固まることを回避できるのだと主張されています。なるほどたしかに賛同できる意見です。
 津村記久子さんの語り口が丁寧で謙虚なので、巷でよくあるビジネス本のように成功者が持論を押しつけてくる感じもなく、素直に書いてあることを実践してみようという気になりました。非常に読みやすいので作文の宿題に悩んでいる学生とかにおすすめかもしれません。もちろんその他の人々にも。


 もう終わりそうな雰囲気出してたのにまだ文章が続いて読者の皆様も辟易しているでしょうが、安心してください。終わりそうなのに終わらなかった、ということはまだ続きます。忘年会新年会の二次会三次会みたいなものです。もう流石に終われよ、と思えば思うほどに終わらなくなっていきます。ここまで読んでいるということは貴方はこのまま始発まで居酒屋に拘束されることが確定しているのです。
 というくだらないことを書いているうちに気付けば3000字を超えていました。
 やっぱり文章を書いていると時間を忘れることができるんですよね。もう30分ぐらい経ったかな?と思って時計を確認すると、実際には2時間ぐらい経過していた、ということがよくあります。僕は知らずのうちに執筆に莫大な時間を費やしていることに気付くのです。

 たぶん僕は根幹的な部分で文章を書きたいという欲求が人一倍あるのだと思います。たまに、こういう風に文章をただ書くだけの仕事があったら時間も体感的に早く過ぎていくし自分の欲求も消化できるし、精神が汚染されずに仕事というものを行えるのではないかと夢想するのですが、おそらく現実はそう甘くはないのでしょう。仕事となるとやはりそれなりの時間的な、あるいは文体的な制約も出てくるのかもしれません。そうなるとやはりフラストレーションが溜まり、書くという行為そのものが億劫になってしまうかもしれない……そうなることは出来るだけ避けたいので、今はただ趣味の範疇として留めておきたいという所存です。

 小説家の村上春樹氏がインタビューか何かで「小説、文章を書くことは小型船の模型を作ることに似ている」みたいなことを述べていたはずですが、たしかに文章を書くことは模型、プラモデルを組み立てる作業に近いものがあると僕も思います。
 僕は基本的に自分で書いた文章を最低一回は自らの目で読み返します。誤字や脱字がないかをチェックしたり、削って大丈夫な部分は切り取り、補足が必要だと思われるところには追記をしたりします。それはとても細かく緻密な作業だといえるかもしれません。しっかりやろうとすれば骨の折れる作業です。
 しかし僕は自分で書いた文章を読み返しながら手を加えていき、文章を完成形にもっていく作業と、それをしている時間がかなり好きなのです。本当にプラモデルを作っているかのように、深く没頭できる感覚があるのです。

 余談ですが僕は村上春樹氏の著書を初めて読んだのが小説ではなくエッセイだったので、村上春樹氏に対してのイメージが「なんか面白いこと考えてるヤクルトファンのおっさん」という漠然としたものなのですが、やはり小説から入るとスノッブっぽいというか気取ってるみたいなイメージを一部の層から持たれるのも仕方ないかなという気はします。比較するものでもないのでしょうが、個人的に村上春樹氏は小説というよりエッセイや紀行文が面白い印象なのでどちらかというとそちらの方をフィーチャーされた方がいいのではないだろうかという気もします。
 なぜか僕のことを学生時代に気にかけてくれた先生や、僕が好きな教育方針を掲げていた先生がほとんど村上春樹氏の本を好きだったので、自然と僕も小説やエッセイを読むようになりました。あと父親が大量に小説を所持していたので手にとりやすかったというのもあります。俗にいうハルキストというほど熱心な信者ではないですが、本屋に行って伊坂幸太郎氏や森見登美彦氏、また米澤穂信氏や朝井リョウ氏などの小説を自然と手に取ってしまうように、また村上春樹氏の著作もその自然と手が伸びる本たちのラインアップの中に含まれています。
 あとこの間通勤中の電車で20代後半ぐらいの女性が『村上朝日堂』という僕が小学生ぐらいの時に図書館で借りて読んだ村上春樹氏のエッセイを読んでて謎の感慨深さがありました。この本自体はたしか僕が生まれる以前に発刊されていたと思いますが、やはり時代を跨いでも変わらない味というのがあるのだろうなと思いました。

 長々とここまであんまり関係ないことも交えながら色々書いてきましたが、ようやく始発の時間がやってきました。良かったですね(何様?)。
 やっぱりポメラDM250というツールを使ったことによって書くことに一意専心、集中できた気がします。気付けばもう4700文字を超えていますものね。文字数を表示できるのもこのデバイスの良いところです。

 今回は年末年始ということでまとまった時間がとれたのでここまで腰を据えて文章を書くことが出来ましたが、またいつも通りの日常に戻ってしまうとこれが継続できるかどうかわからないのが正直なところです。以前の記事のように虚脱感満載の記事に逆戻りしてしまうかもわかりません。

 しかし、ポメラDM250を買ったことによって確実に書くことに対してのモチベーションは上がりましたし、趣味としての執筆を生活の中に確立していけそうな予感はあります。読者の皆様もあまり期待せずにこのブログの行く末を温かく見守っていただければ幸いでございます。
 ここまで駄文長文、そして途中に無意味に差し込まれる余計な奇文を読んでくださり本当にありがとうございました。ではまた次回も24時間営業の居酒屋でお会いしましょう。

 ※申し訳ございませんがここまで読んで無駄にした時間を返せ、というクレームには一切対応しかねます。ご自分でメンタルをコントロールし、行き場のない感情をやり過ごしてください。

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