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背後はもう思い出


2024年2月10日(土)朝の6:00になりました。

酸素と海とガソリンと、たくさんの気遣いを浪費している。

どうも、高倉大希です。




こんなことがありました。だから、こう思いました。

小学生はよく、こんな文章を書きます。


こう思いました。なぜなら、こんなことがあったからです。

中高生になると、こんな文章を書けるようになります。


要するに、事実と解釈のどちらが主導権を握っているのかという話です。

年齢を重ねるごとに、目の前の事実を材料として扱えるようになるわけです。


観察とは、客観的に観測可能な「事実」に関する情報を幅広く収集し、それらに整合する意味を「解釈」することです。参加者の発言、それに対する相槌、会話のやりとり、表情、姿勢、座り方、立ち方、付箋やワークシートに書かれている文字の内容や量など、目や耳で把握できる「事実」情報を多角的に収集し、状況を解釈するための手がかりとすることです。

安斎勇樹、塩瀬隆之(2020)「問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション」学芸出版社


ここの切り分けができないと、事実に振り回されることになります。

よいことがあれば気分も上がり、よくないことがあれば気分も下がります。


事実なんて、自分でコントロールできるものではありません。

他者が関われば関わるほど、コントロールできないものになっていきます。


だからこそ、解釈が主導権を握っていなければなりません。

「どんな事実があったか」ではなく「どう解釈するか」が、重要になるわけです。


当時と今とでは、なんというか、世界と自分の命との距離感が違う。子どもの頃は世界という舞台の真ん中で生きていた。それに較べると、今は目の前の世界がなんだか遠い。観客席に座ってるみたいだ。

穂村弘(2023)「蛸足ノート」中央公論新社


思いどおりにならなかったから、後悔する。

ほかの選択肢を羨ましく思って、後悔する。


後悔、先に立たず。

これこそまさに、事実に振り回されている事例です。


後悔とは、事実に対する解釈です。

本来なら解釈は、自分の意志でコントロールできるはずなのです。


これは素人の推測でしかないのですが、進化の過程において、意識というものはそもそも、過去の行動で失敗したときに、それを捉え返すプロセスにおいて生じたものではないかと思うのです。何かを決定して行動するという前向きなものではなく、何かを後悔し、「あのとき別のことができたかもしれない」という後ろ向きの働きが、意識というものの基本的な構えなのではないか。

養老孟司、茂木健一郎、東浩紀(2023)「日本の歪み」講談社


背後はもう、思い出です。

そんな思い出をどう解釈するのかは、すべて自分にかかっています。


幸せというものがどこかにあって、それを求める旅をしているのではありません。

どこかにあるという前提に立つから、不幸せを感じなければならなくなります。


こんなことがありました。だから、こう思いました。

これを言ってもいいのは、小学生までです。







サポートしたあなたには幸せが訪れます。