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ぼくが聖書を好きな理由

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キリスト教の礼拝でするお話の原稿はこちらにまとめています。そんなに「新しい」とは自負していませんが、「正統派」に疲れた方々に届けたい聖書のまた一味違った魅力を書いています。
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#教会

落ちこぼされたもの〜コリント二5章16-21節から

落ちこぼされたもの〜コリント二5章16-21節から

 二つのことについて記したいと思います。一つは、「新しく創造される」(17)こと。もう一つが「和解のために奉仕する任務」(18)についてです。
 新しく創造されると聞くとワクワクしますか?では

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自分で自分のパンを食べても意味がない

自分で自分のパンを食べても意味がない

 キリスト教会って何をするところ?という質問にはいろんな答えが返ってきそうです。神を礼拝するところ、神を賛美する、祈る、聖書を読む、人と会う、話を聞く、話をする、ささげものをするというのが考えられるでしょうか。教会では、聖書の勉強をする人もいますし、歌を練習する人もいます。あるいは誰かと話すことを楽しみにする人もいますし、逆に誰からも話しかけられないで一人でひっそりとしたいと願っている人もいます。

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キリスト教会はイエスの宣教を真に受け継ごうとしているのか〜イザヤ書2章4節を巡って〜後半

キリスト教会はイエスの宣教を真に受け継ごうとしているのか〜イザヤ書2章4節を巡って〜後半

さて、前半で述べたイザヤの時代のことばは数百年のちにどのように受け継がれていったのかを考えていきたいと思うのです。それはやっぱり絵に描いた餅だったのでしょうか。
 また最後の部分は教会ではお話ししていない加筆部分です。

平和の預言はイエスによっても受け継がれました。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39

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返却することよりも次へ渡すことへ〜コリントの信徒への手紙一3章1−9節〜

返却することよりも次へ渡すことへ〜コリントの信徒への手紙一3章1−9節〜

コリントにはローマの解放奴隷たちが多く移住していたようです。コリンとは、南ギリシャ州の大都市でローマの繁栄を象徴するような都市とも言われています。ローマの市民権を持つ人びと、ユダヤの民、ギリシャ人が共生するところでした。その共生の様子は残された史料から想像するほかありません。少なくともキリスト教共同体では、ユダヤの人々とギリシャ人との間には超えられない壁があったことがわかっています。パウロは、その

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誰々つながりがなくても〜コリントの信徒への手紙一1章から

誰々つながりがなくても〜コリントの信徒への手紙一1章から

 宗教団体が決して「怪しい」ものではないことを証明するにはどうすればいいでしょうか。「何ら害がない」ということを伝えるには、すでにこの世で承認されているものと同じであるという他ないのかもしれません。
 キリスト教会が発行する「自己紹介」で、この教会は〇〇学校と同じ団体に属しています、というのを見て、ああ、こう書けばすでに実績のある団体の関係団体だから大丈夫と思われるということか、と思いました。親し

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いのちの水とキリスト教(4・完結)

いのちの水とキリスト教(4・完結)

今回が4つに分けていたお話の最終です。ヨハネによる福音書4章前半をどちらかというと「教会論」的にお話ししてきました。教会ってどういうところなんだろう?それを問うことは自分の頭の中で〜あるべき〜なことを超えていく一つの霊的な活動だと思うのです。大体の教会論は逆に自分の頭の中にあるべきことを形成していく形で紡がれてきたことへの逆ベクトルですね。

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よろめき倒れる者へ〜イザヤ書3章1−15節より

よろめき倒れる者へ〜イザヤ書3章1−15節より

ユダヤは王国になりました。周辺諸国と同等になりたくて、王制を受け入れました。しかし、二世代目にはすでに破綻したのです(早)。王制度は世襲が基本です。すぐに王位継承の大問題が生じました。三世代目では南北の地域にそれぞれの王が立てられました。

南王国には、外国の技法と建築材を取り入れ荘厳な神殿がありました。神殿を象徴として、「我こそ正当な王権を継いでいる」と威張ります。一方で北側では「正義を貫いた」

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アバンギャルドな希望について

アバンギャルドな希望について

神はユダヤ人という集団と約束をし、ユダヤ人以外はユダヤ人にできるだけ近い状態になることで約束の中にギリギリ入れると考えられていました。この手紙を書いたパウロはユダヤ人ですが、その特権にしがみつかなかったのです。
 律法は直接的にはユダヤ人が守らねばならないとされてきた、宗教的生活の土台です。非ユダヤ人とユダヤ人を区別する「物差し」でした。非ユダヤ人もユダヤ人の律法に則す、つまり「ユダヤ人のようにな

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最高の価値〜0円

最高の価値〜0円

先週からローマの信徒への手紙でのメッセージになりました。ずっとルカを読んできたので、突如、パウロのぐちゃぐちゃに自分も巻き込まれていく感覚です。だけど、丁寧に解いてみて、新しい布を織り込んでいけたらいいなあと思っています。巻頭言として記したものの後で、さらに今回読んでいる中で感じたことを記しました。

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それともぼくと踊りませんか〜たわ言を信じる人びとが平和をつくる

それともぼくと踊りませんか〜たわ言を信じる人びとが平和をつくる

イースターおめでとうございます。イースター礼拝でしたお話のもとになる原稿を記事にしています。「ふざけんな!」とお怒りになられるやも、などちょっと頭をよぎったのですが、イースターはお祝いだし、ちょっとわさわさしても大丈夫かな、おゆるしあれ!と念じつつ温めてきた内容です。
この話はレント期間中にずっと考えてきたものです。受難節って、眉間にしわ寄せ、難しいことを考えている風に過ごさなければならないような

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思い出したら、たわ言が福音になる話

思い出したら、たわ言が福音になる話

ガリラヤで人びとをいやし、教え、共に食事をしたイエスは、当時の指導者たちからの敵意と憎悪のターゲットにされました。スケーブゴートという言葉があります。身代わりにされることです。現代日本の「圧迫社会」で、スケープゴートにされ、いたぶられ、侮辱を受ける人、その反面誰かを押しつぶして、スッキリしている人びとがいます。これもスケープゴートです。親が子どもに、夫が妻に、先輩が後輩に、教師が生徒に…、社会的に

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恐怖のテキスト?〜石を取りのけろ!復活だ

恐怖のテキスト?〜石を取りのけろ!復活だ

神殿の境内で商売をする人々を追い出したイエスが、ぶどう園のたとえ話をしました。神殿の境内で語ったことになっています。ぶどう園で働いていた農夫たちが収穫を納めず送り込まれてきた僕を次々と追い出すことと、イエスの行動が被ります。このたとえ話はいかようにも受け取れました。ぶどう園の労働者として働いたことのある人が聞くとどうでしょうか。畑を任せきりにして長旅に出かけた主人の不在、あれは何だ?と思い返したで

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夢を抱ける宗教〜キリスト教でいう「夢を諦めない」〜

夢を抱ける宗教〜キリスト教でいう「夢を諦めない」〜

自然を貫く果てしない叫び

「自然を貫く果てしない叫び」。このタイトルはノルウェー、オスロ美術館にあるエドヴァルト・ムンクの「叫び」という絵画につけられたタイトルです。19世紀後半(1893年)に描かれたそうです。この絵画ではムンクが叫んでいるのではないそうです。彼を取り巻く天地、自然から聞こえる叫びに魂が怯えている様を描いたものだそうです。自然が叫ぶ、それは一体どういうことなのでしょうか。

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