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同じ意見のなかに気づきはない

SNSのコメントで最も多いパターンは、

  1. 元気出ました

  2. 同意します

  3. なるほど目から鱗

辺りかなと思います。
でも個人的には、同じ意見ならべつに言わなくても良いだろうというのがあります。いいねで十分だと。
だから僕がコメントするときは、

  1. 僕はこう思う

  2. それはどうなんでしょうね

  3. なるほど目から鱗

のようなコメントになります。(3番だけ一緒😊)
投稿者側から見れば、あまり可愛くないコメントですよね。

結果、コメントの返事をもらえないこともあります。
いいねももらえなかったり。
最初はちょっと凹みかけたり、プチ罪悪感もありましたが、いまはほとんどそういうことはありません。
自分の意見を言うときに、その意見に価値があるかどうかを考えるようになったため。

価値あるコメントをしているつもり

たとえ相手があまり歓迎しなさそうなコメントを自分がしたとしても、自分としては価値あるコメントをしたと思っているから、そのこと自体を卑下したくはないと思っています。
例えば Twitter は、コメントも投稿として独立しているから、元の投稿が削除されても残る仕組みです。コメントも投稿と同じなのです。

無視されたら「相手は気に入らなかったのだな」と思うだけにしています。
そのことで、何かに気づいたり、発見したり、インスピレーションを得たりするかどうかは、相手の心のなかの問題だから。

投稿でもそう

世の中に対して「自分の見解を伝えたい」というのが、自分にとっては最も強い動機です。モチベーションです。

だから、何かに同調した意見を投稿することはほとんど無いと思います。
自分が本心で良いと思って支持するものは支持するし、そうでないものを、群れるためだけの同調意見として発信するようなことはしていないと思います。

投稿は、自分のためもありますが、見てくれる他人のためにもあります。
見た人がそこから何かを見つけ出すことができるか、できないかは見た人の問題だと思っています。
何かを見つけ出せた人はラッキーで、利益を得たと考えるようにしています。僕自身も、そうやって他人の投稿から利益を得てきました。

礼儀と尊重

コメントの場合は明確な相手があって、場合によっては「無礼」になることもあるため、内容や言い回しはそれなりに考えています。
でもそれは自分の感覚なので、相手がその通りの受け止めをするとは限りませんが。

自分のタイムラインを「自分の部屋」のように考えている人は、よく分からない他人にいきなり入ってきて余計なことを言ってほしくないという考えが働くかもしれません。
タイムラインを「共有される社会的なもの」と考える人と「自分の部屋」と考える人とによって、見解の受け止め方は異なるのでしょう。

また、note のように記事を有料にしている方や、ご自身のビジネスのブランディングとして発信されている方の場合は、一歩間違うと営業妨害になることがありそうです。
よほどそのビジネスが社会的に問題がある場合を除いて、要らぬ見解は述べない方が相手のためになると思ったりはします。

和を以て貴しとなす

聖徳太子の言葉を、僕は少し違うイメージで捉えていたかもしれません。
「和を以て貴しとなす」の意味は「互いに議論せよ」というのが真意だそうですね。
僕は「和やかに丸く収めよ」のようなイメージを持っていました。

最終的には「折り合いをつける」というところを目指す考え方なのでしょうね。
人と人とは必ず違う意見を持っているから、それを同じにしようとしたり、違うといって拒否したりするのではなく、まずは違ったまま尊重することが大切だと思います。

その話題に何らかの目的があるとすれば、その目的を共有して見解の折り合いを付ける作業が発生するのでしょう。でもそれは、SNSのコメントの場合そこまでの必要性はなさそうですね。

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