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まるで古代遺跡? 緑に飲み込まれた幻の絶景廃村を探す(東京都) #出発編

廃村に行きたい。
なぜだろう、無性に廃村に行きたい。

青々しい新緑の精気にむせながら、うち捨てられた村のなかを歩き回りたい。
道々のアスファルトは千々にひび割れているほうが良い。その隙間から虎杖の頭などがぬっくりと顔を出していると、なお好ましい。

ひしゃげた家の屋根を、ヤマゴケがもこもこと浸食してゆくさまを思い描く。葛の葉の緑が、さび付いた自転車を螺旋状に飲み込んでゆくところを想像する。
気持ちが徐々に浮き足立ってくる。

過ぎ去った時代の残骸(撮影/北山)

人はどうして廃村に惹かれるのだろうか。

僕は高校生のころ「大分麦焼酎二階堂」のテレビコマーシャルが大好きだった。こっそりとスクールバッグにPSPを忍ばせては、通学バスのなかでリピート再生していた。
うらぶれた町並みを背景に、塩辛声の男性が詩を朗読する。それだけのコマーシャルなのだが、繰り返し観たい中毒性があった。

このコマーシャルの世界観は、恐らく二階堂酒造有限会社が設立された1960年代なのだろう。94年生まれの僕には想像もできない時代だが、不思議と「あのころに戻りたい」と思わせる力があった。

思うに、廃村にも同じ魅力がある。

「過ぎ去った時代」には、有無を言わせぬ引力があるのだ。
これは廃村の魅力のひとつに違いない。

もうすぐ蔦に飲み込まれそうな自転車(撮影/北山)

話を変える。
小学生のころ、父の書斎で『死体の本』というムックを見付けたことがある。父は物書きだったから、なにかの資料に使っていたのだと思う。「死体カメラマン」や「奇形標本」といった、ちょっと趣味の悪い特集があったことを覚えている。
少年時代の僕は、おっかなびっくりその本を開くのが好きだった。

廃村は、村の死骸だ。
足を踏み入れると、誰かに怒られるのではないかという後ろめたさが生じる。

水底のように静まりかえった廃墟に、そろりと首を突っ込む(勝手に入ったら不法侵入だ)。目線の先に、湿気でふやけた家族写真を見付ける。底の抜けた鍋が、台所の方にうっちゃってあることに気付く。
その時、僕は『死体の本』を開いた時の気持ちを思い出す。

「廃村に行きたい」は、「死体を見たい」に通ずるのかもしれない。
言ってしまえば、「怖いもの見たさ」を満たしてくれる場所なのだ。
これがふたつめの魅力である。

では、廃村を「村の死骸」と考えると、どのような廃村が理想的といえるだろう。

人は刺激を好む。
どうせ死骸を見るのであれば、いくらか腐敗が進み、肉が液状化しているくらいがちょうど良い。古すぎても新鮮すぎても刺激が足りない。

江戸時代の家々の痕跡を見ても、そこに廃村としての魅力は感じないだろう。生活臭の消え去った廃村は、いわば白骨化した死体のようなものだ。
かといって、住人が出て行ったばかりの村でもダメだ。出来たてホヤホヤの廃村では、生きている人間と変わらない。

だから、理想的な廃村は、ほどよい腐り加減であるべきだ。
見たい。けど怖い。薄目を開いて、おっかなびっくり覗いてみる。ああ、やっぱり怖い。それくらいであるべきだ。

少々情けない葛藤を抱えながらも、僕はやはり廃村に行きたいと思った。
それも、どうせ行くなら、理想的な廃村に行きたい。
廃村の写真集を買ったくらいでは、ちっとも収まらなかった。

調べたところ、奥多摩の付近にはちょうどよく腐敗した廃村があるらしい。

その名は、倉沢廃村――。

聞くところによると、奥多摩の山深くにある、それは美しい廃村だそうだ。
僕が住んでいる高円寺からは、電車で2時間足らずの距離である。話が早いじゃないか。

――廃村行きたくない?

誰よりも若い僕は、友人に「スタンド・バイ・ミー」のバーン・テシオ少年めいたラインを送っていた。

僕は、今年で29歳になる。(円)


北山:1994年生まれ。ライター。「文春オンライン」、「幻冬舎plus」などに寄稿。文系院卒。専門は村落史だった。墓場散歩が趣味。有名人の墓参りではなく、土地土地の権力構造を探るのが楽しい。デート中でも墓があったら入る。署名は(円)。

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