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愛された記憶と自己肯定感

海外に行ってみると、多くの人たちの
愛情表現が過激であるように思えて、
びっくりして、恥ずかしくなる。

挨拶やさりげないところでのハグ、
love youやmiss you の言葉の多さ
(大まかに訳すと、両方とも愛してるという意味)、
投げキスや頬や額へのキス。

親子でなくても、友人、知人、初対面でも関係なく。
年齢も性別も関係なく。

恥ずかしさと、心地よさと、
愛されている実感と、受け入れてくれる安心感。

海外にいるとき、このような愛情表現に、
この上なく満たされることが何度もあった。

「私は愛されている」「ここに存在していいんだ」
と何度も思えた。

それは自己肯定感の高さにも繋がった。

日本に戻ってくると、どこかよそよそしさを感じて、
ハグなんてすると「海外慣れ」なんて言われて(笑)、
心のどこかが寂しくなる思いをした。

love youもmiss youも一言も聞こえない。笑

海外の全員が!とは言えないけれど、2年住んでみて
私の出会った大半の人が、愛情表現を
オープンにする人たちだった。

そんな人たちと過ごす日々が心地よかった。

海外の人たちのように私も愛されて育ちたかった、
と何度も思った。

私たちは、幼い頃、
「愛されないと生きていけない」と生命の危機を感じて、
なんとか生き延びるために
親や家族に愛されたいと強く願う。

愛されていると実感することで、
自分は存在価値がある、
私はここにいて良い存在なんだと感じる。

自己肯定感は、幼少期の家庭環境や
親子関係が影響するとも言われている。

私自身、大人になって「親に愛されたかった」
という強い欠乏感を持ち、自己肯定感が低く、
自信もなく、自己否定の連続、
という思考癖であると気づいた。

親が悪い!と思っていた時期もあったが、
同じ親から生まれた姉妹であっても、
感じ方や思考癖が違うのを見ていると、
「親がどんな愛し方をしたか」ではなくて、
「こどもである私がどんな捉え方をしたのか」という、
私自身の意識の選択でしかないことに気づいた。

客観的にはとても愛されていたって、
本人が愛されていないと感じれば、
その人にとっては「愛されなかった」という
記憶になる。

自己肯定感も、自信も、自己否定も、
親どうこうではなく、結局は本人の
選択次第だ。

つまりいつだって変えられる。

今となっては、愛されてきたのか、
愛されなかったのか、わからない。

でもそんなのは、どっちでも良い。

自己肯定感の低さから、自信のなさから、
自己否定の連続から抜け出すためには
私たちは自分で自分を愛すること。

自分を愛し続けて、満たし続けて、
大切にし続ける。

それが愛された記憶にもなっていく気がしている。

海外の人たちのように、愛情表現がオープンに
しているのが心地よいなら、
自分への愛情表現をオープンにすれば良い。

愛された記憶も自己肯定感も
自分で築き上げていくものかもしれない。




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