愛された記憶と自己肯定感
海外に行ってみると、多くの人たちの
愛情表現が過激であるように思えて、
びっくりして、恥ずかしくなる。
挨拶やさりげないところでのハグ、
love youやmiss you の言葉の多さ
(大まかに訳すと、両方とも愛してるという意味)、
投げキスや頬や額へのキス。
親子でなくても、友人、知人、初対面でも関係なく。
年齢も性別も関係なく。
恥ずかしさと、心地よさと、
愛されている実感と、受け入れてくれる安心感。
海外にいるとき、このような愛情表現に、
この上なく満たされることが何度もあった。
「私は愛されている」「ここに存在していいんだ」
と何度も思えた。
それは自己肯定感の高さにも繋がった。
*
日本に戻ってくると、どこかよそよそしさを感じて、
ハグなんてすると「海外慣れ」なんて言われて(笑)、
心のどこかが寂しくなる思いをした。
love youもmiss youも一言も聞こえない。笑
海外の全員が!とは言えないけれど、2年住んでみて
私の出会った大半の人が、愛情表現を
オープンにする人たちだった。
そんな人たちと過ごす日々が心地よかった。
海外の人たちのように私も愛されて育ちたかった、
と何度も思った。
*
私たちは、幼い頃、
「愛されないと生きていけない」と生命の危機を感じて、
なんとか生き延びるために
親や家族に愛されたいと強く願う。
愛されていると実感することで、
自分は存在価値がある、
私はここにいて良い存在なんだと感じる。
自己肯定感は、幼少期の家庭環境や
親子関係が影響するとも言われている。
私自身、大人になって「親に愛されたかった」
という強い欠乏感を持ち、自己肯定感が低く、
自信もなく、自己否定の連続、
という思考癖であると気づいた。
親が悪い!と思っていた時期もあったが、
同じ親から生まれた姉妹であっても、
感じ方や思考癖が違うのを見ていると、
「親がどんな愛し方をしたか」ではなくて、
「こどもである私がどんな捉え方をしたのか」という、
私自身の意識の選択でしかないことに気づいた。
客観的にはとても愛されていたって、
本人が愛されていないと感じれば、
その人にとっては「愛されなかった」という
記憶になる。
自己肯定感も、自信も、自己否定も、
親どうこうではなく、結局は本人の
選択次第だ。
つまりいつだって変えられる。
*
今となっては、愛されてきたのか、
愛されなかったのか、わからない。
でもそんなのは、どっちでも良い。
自己肯定感の低さから、自信のなさから、
自己否定の連続から抜け出すためには
私たちは自分で自分を愛すること。
自分を愛し続けて、満たし続けて、
大切にし続ける。
それが愛された記憶にもなっていく気がしている。
海外の人たちのように、愛情表現がオープンに
しているのが心地よいなら、
自分への愛情表現をオープンにすれば良い。
愛された記憶も自己肯定感も
自分で築き上げていくものかもしれない。
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