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みなとメディアミュージアムの成り立ちについて〜なぜ、どうやって生まれたか〜
0.はじめに茨城県ひたちなか市那珂湊でやっている小規模地域芸術祭「みなとメディアミュージアム」について「どうやって始めたんですか?」とか「なんで始めようと思ったんですか?」みたいなことをよく聞かれます。
聞いていただけるのは嬉しい一方で、調べりゃわかることを調べてないことを聞かれることも多いので、有料ページをつくっておこうかなと考えました。過去のことを何度も語るのも自分にとってあまり良いことでは
「みなとメディアミュージアム」という分かりにくい名称について
11回目のMMM(みなとメディアミュージアム)が無事に終わって、はや3ヶ月。今年はとても良い年で、3年目を迎える実行委員も2年目を迎える実行委員もとても元気。
さて現在は色々と議論をしている。来年のMMM2020は現在のフレームワークを活かして開催するものの、MMM2021(仮)は大きく変えることになっている。その一つに「"みなとメディアミュージアム"という名称が分かりにくい。わかりやすい"那珂
「アート×まち」な視点から見るべき、2019秋の中小規模の芸術祭9選+α
はじめにぼくが事務局長をつとめた茨城県ひたちなか市の芸術祭みなとメディアミュージアム(MMM)2019が終わりました。残務処理と見なかったことにしていた別仕事の山を眼前にして、クラクラしている昨今の田島です。
さて、MMMには毎年、多くの実行委員が加入します。その中には芸術祭なんて知らなかった、そもそもアートに興味がなかった、という人もいます。そのため他を知らないことで悩んでしまったり、辛い思い
地域アートプロジェクトの事務局制度:みんなで議論して、ずっと続けるために
先日、ぼくが関わっているMMM(みなとメディアミュージアム)とMRS(一般社団法人新宿メディア芸術地域活性化推進協会)で、同時プレスリリースを公開した。内容は、MRSがMMMの事務局を担うこと、MMMは共同代表制とすること、そしてぼくがMMMの事務局長となること、だ。
昨年末に報告した、最終責任者としてMMMに戻る、という話をやっと公的に報告することができた*1。前任者のありがたみをひしひしと感
「アートプロジェクトの時代」が終わる前に:地域に文化芸術を残すためにできること
(合計6500文字程度の有料記事となっていますが、ほぼ全文読めます。「支援のお礼」として、800文字程度の簡単なおまけページがあります。もしよろしければ、支援よろしくお願いします!)
茨城県北芸術祭の開催が中止となった。
美術手帖でも言っているが、今回の中止には知事交代による影響が非常に大きい。茨城県知事は2017年8月の選挙で、現職の大井川和彦茨城県知事が、前職の橋本昌を破って、新知事となっ
MMM2009-2018:ただいま、MMM(エピローグ)
那珂湊を中心に、一部の関係者にはお伝えしましたが、来年からみなとメディアミュージアムの責任者(名称募集中)として戻ることになりました。2013年以来の復帰ということになります。
現在もスタッフと一緒に毎週オンライン会議をやってます。これまでの代表にタスクが集中する悪しき体質を止めるべく、来年度は(代表だけでなく)複数のスタッフと丁寧に議論しながら進めるスタイルでやろうと考えています。一方で、スタ
MMM2009-2018:ハッピーエンドは、まだ早い(MMM2017)
2017年は、ぼくの身辺変化から話した方が良いだろう。
まず職場(宝塚大学)で大きな変化があった。
自分の管轄の映像領域を廃止し、入試委員長(IR推進委員長兼務)になった。8年間定員を大幅に下回る状況は問題があると思い、学部全体とターゲットがズレている映像領域に固執するよりも、学部全体をなんとかしたいと思ったからだ。ここから、外部のコンサルティング団体と毎回、喧嘩しながら、毎日数字とにらめっこし
MMM2009-2018:home(MMM2016)
遅筆の言い訳をするのもあれだけど、MMM2014とMMM2015は、どうも執筆スピードが出なかった。当時ぼくは「MMM中の人」ではなかったから、だろう。
MMM2016は、すらすらと書ける。
「動く」と決めてから、ぼくは「MMM中の人」として、一気に動いた。
まず4月。SFCの新歓のテコ入れ。MMM2016代表の浅野くんにつないでもらって、一般社団法人CYE(Young Entreprene
MMM2009-2018:SOS(MMM2015)
2015年。2015年2月に博士論文を無事刊行し、宝塚大学の仕事も慣れてきていて、いろいろなものからぼくは解放されていた。
2014年に感じた「鑑賞者」でいることに対する「もやもや」の解消はMMMではなく、他の場所で発揮していた。この年は、新宿区中井で新しいアートイベント「プライベート・パブリッシング」(〜2016)を作ったり、自分の作品『developments』を発表したり、博士論文を活かし
MMM2009-2018:見守るしごと(MMM2014)
MMM2013をもって出展することと、プロデューサーをやめた。今回は、心機一転の2014年の話。
2014年というのは、ぼくにとって転機で、宝塚大学の専任講師として働き出した年でもあり、下北沢での生活を始めた年でもあった。また、当時執筆していた博士論文も大詰めを迎えていた。MMMは現在も続いている、中村(やす)さんをプロデューサー、橋口(静思)さんがチーフキュレーターという体制になった。必然的に
MMM2009-2018:話すことと、作り続けること(MMM2013)
誰にも見せる予定のない、2013年5月5日の非公開の日記に、こういう一文を書いていた。
今だってMMMがあるじゃないかって思うかもしれないけど、僕はMMMで腐っている。「作家」としてではなく「プロデューサー」として期待されている。人はどんどん来るけど、彼らと話したいと思えない時がある。
MMM2012はとても順調だった。上手くいくと、色々なことをやりたくなるし、後押しも生まれる。ぼくはMMM2