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【吉田博 板谷波山】淡いピンクと水色 明治生まれ版画と陶芸家 唯一無二の魅力

マッカーサーやダイアナ元妃など海外の要人から絶大に愛された日本人版画家、 そして「海賊と呼ばれた男」で有名な出光興産創業者出光佐三が愛した陶芸家がいた

道は違えど共通点を感じ、
自分の中で同じカテゴリーに入っている天才

明治から昭和にかけ自然の優しい美しさを表現した
版画家 吉田博  1876-1950  (明治9-昭和25)
陶芸家 板谷波山 1872-1963 ( 明治5-昭和38)

二人の創り出す作品は和洋を超越した唯一無二の世界  どうしようもなく惹かれる二人の魅力を紹介したい  

【記事の見出し画像】
「まさに吉田博と板谷波山の世界はこれ!」
 という景色に良いタイミングで遭遇
 岡田将生×King Gnu井口理 ビールのCMの冒頭部分




◼️吉田博と板谷波山その共通点

・明治生まれ 同時代を生きる 
・東洋と西洋の融合
・今見ても新しい 時代を超越した感性
・唯一無二の個性
・制作に対する姿勢は超絶ストイック
・優しく品のある色
・美意識の高さ

左)吉田博     右)板谷波山 
容姿が既に時代を超越




◼️共通する優しく品のある作風

吉田博
光る海 瀬戸内海集
  大正15(1926)年
ダイアナ妃の執務室に飾られていたことで有名
ずっと見ていられる
板谷波山  
葆光彩磁花卉文花瓶 昭和3年(1928)頃 
出光美術館の展覧会ポスターより
ポスターの文字の色と作品の色のリンク 良すぎ





◼️共通する優しいミルキー色の世界

とにもかくにも二人の魅力は作品の色
淡くて優しくて品があって癒し
乳白色、なんとも言えない「ミルキー感

特に、多用されている淡いピンク水色
二人の作品と言えば「あの色」とイメージが湧く


吉田博の版画】バキッとした原色少なめ淡い世界

タジマハルの朝霧 第五 昭和7年(1932)
インドの代表的なイスラム建築タージ・マハルの風景は、
朝霧に包まれた様子から夜の情景まで全6作を発表


【板谷波山の陶器】マットな質感と淡い色の世界

重要文化財 葆光彩磁珍果文花瓶(大正6年・1917)
明治時代以降近代に製作された重要文化財で
陶芸作品としての指定は二品のみ
貴重なそのうちの一つがこちら




◼️版画家 吉田博の魅力 


【1】唯一無二の版画

西洋の色彩表現と東洋の浮世絵の技法が融合し
写実的な表現と抒情的で独特な色彩感に溢れた作風

フワテプールシクリ インドと東南アジア 昭和6年(1931)
 イスラム建築の精緻なアラベスクから滲む光と
その乱反射を表現するため、淡い同系色を幾度も摺り重ねている
輪郭線を抑えた幻想的な表現
限られた色数でありながら驚異の47度摺り
本当に木版画?!と驚かされる異国情緒たっぷりの作品
滲むような黄金色の光が博が出会った遠い異国の空気を伝える
図録の裏表紙にも使われていた
吉田博の驚異の才能を示している 凄すぎて分かりきれない 笑


【2】数多くの海外経験 

当時としては珍しく数多くの国を巡り、
その経験が作品へ存分に反映されている

1899年(明治30)23歳で渡米
1900年(明治31)渡欧
          イギリス、フランス、ドイツ
          イタリア、パリへ
1903年(明治36)27歳 2度目の渡米 
         欧州諸国、モロッコ、エジプト巡歴
1906年(明治39)帰国
1923年(大正12)47歳 3回目の渡米
1925年(大正14)アメリカからイギリスに渡り
         欧州歴訪ギリシャを訪れる
1930年(昭和5) 54歳 4回目の渡航 インドへ
1931年(昭和6) スリランカ、ミャンマー
                                マレーシア、シンガポール
         香港、台湾経由で帰国
1938年(昭和13)62歳 
         陸軍省嘱託従軍画家として中国へ 
       以降3年に渡り、毎年中国に派遣される

ベナレスのガット 昭和6年(1931)
昭和5(1930)年19歳になった長男遠志をともない
インドに行った際の作品
当時の人の感性とは思えないほど時代を超越したものを感じる
版画なの…?!水の表現たまらない
アニメっぽくもある 新しい
※長男遠志も版画家




【3】日本国内よりも世界を魅了

マッカーサー、ダイアナ妃、
パタゴニアの創設者、精神科医フロイトなどが愛した

下落合の吉田家
GHQ進駐軍関係者が集う美術サロンのような場に

海外経験が豊富な吉田博
戦前から欧米で人気があった事もあり、
戦後サロン状態に (マッカーサー夫人も訪れる)

マッカーサーが日本に降り立った最初の一言が
「ヨシダヒロシハどこだ?」と言う噂も
まんざら嘘では無いかも?!


ダイアナ妃お気に入り
ケンジントン宮殿の執務室の壁に
吉田博作「猿澤池」と「光る海」が飾ってある
この部屋のインテリア光る海の色合いでは?!

【ダイアナ妃 来日の際に購入した作品】
左)吉田博 「猿沢池
        興福寺の五重塔を背景にしている    
     右)吉田遠志「箱根神仙郷 竹のお庭
      竹林をクローズアップ ※博の長男 

【ダイアナ妃 帰国後に購入した作品】

吉田博 「光る海」
※冒頭に掲載している作品



米国シリーズ エル・キャピタン 大正14(1925)年
アメリカンアウトドアブランド
「 パタゴニア(Patagonia)」のカタログの表紙になった



【4】反骨精神

日本洋画界の重鎮、黒田清輝を殴った噂あり!

有名な湖畔の作者 黒田清輝
吉田博が「旧派」で修行していた時代、
黒田清輝の「新派」が台頭してきた頃
硬派・頑固・反骨と典型的な九州男児の吉田博は「旧派」劣勢の状況に猛反発し、黒田のいる東京美術学校(今の東京芸大)とその出身者を敵視、ついに黒田清輝を殴ったという噂に
(真偽のほどは不明。噂になるような関係性にはあった模様)
優しい世界観から想像できないけれど、そんな面も魅力



【5】ストイック①驚異の96度摺り

江戸時代浮世絵の摺りの数平均10回程度、
博は平均30回、多い物だと100回近く摺っていた

陽明門」昭和12年(1937)
96回の重ね摺を施し精緻で写実的な表現を実現

ズレ無く擦れるのが人間技とは思えない
知っている版画の範疇を超えた作品
現物は圧巻 細部を味わわずにはいられない 



【6】ストイック②山籠り 妥協を許さない 「絵の鬼」

代表作  日本アルプス十二題 劔山の朝 大正15年(1926)

毎年夏になると1~2ヶ月山に篭り制作
必要であれば何か月も山に篭る
自らの仕事に一瞬たりとも妥協を許さず、
単に写実的に描くだけではなく「自然に委ねる」という
姿勢を貫いた。身なりに構わず写生に励み、
2カ月間の山暮らしで風貌が変り
下山時に真っ黒にすすけた風体を怪しんだ警官に尋問を受けた

画友たちはそんなストイックな姿勢を「絵の鬼」と呼んだ

魂のこもった山の作品の数々は、
今も登山愛好家に愛されている 
特に、大正期の作品『穂高山』 『穂高の春』は、
下界から見上げただけでは描けない、
リアルなアングルを求め続けたストイック過ぎる執念の賜物

自身も 『穂高山』には特別な思い入れがあったのか、
次男に「穂高」と命名
博は「日本アルプスは全部登った」という




【7】版画ならではの連作

同じ版を使って摺りの色を変える技法を用いて
時間や大気、光の移り変わりを表現

瀬戸内海集 「帆船」  1926年(大正15)
色調を変えて「朝・午前・午後・霧・夕・夜」
の異なる時間を表した6バージョンあり


スフィンクス / スフィンクス夜 1925年(大正14年)
余談)江戸時代 文久4年(1864年)
日本人が初めてスフィンクスの前で撮影してから
約40年後に博はエジプトに行き
後にスフィンクスの作品を作っている




【8】斬新な物理的立体感のある表現

木版画『於ほばたん あうむ』1926年(大正15)
博は動物も数多く描き残している  右は拡大写真
「於ほばたん」とは「オオバタン」というオウムの種類
博はオウムの羽を「彫師では形にできず自ら彫るしかない表現」と語り、空摺りの技法を使った

肉眼で見るとこのように羽の凹凸線が見え立体感を感じる
こういった版画は初めてである
絵自体可愛いのだけれど、版画の端に手書きで「あうむ」と書いてあるのが可愛い。オームじゃなくて「あうむ」にキュン  



【9】最後の作品 世界を旅し農家の土間に戻る

最後の作品の「農家」1946年(昭和21)
吉田博の戦後唯一の新作、最後の木版画となった作
写生地は東京・成増付近の農家
農家の暗い土間を細部まで丁寧に表現
戸からのぞく木々の緑や人々の衣装、
かまどの火が画面にアクセントに

最後に選んだのがこの題材だというのは、
意外性とともに納得感がある 染み渡る素敵さ
亡くなる4年前に作られたもの






◼️陶芸家 板谷波山の魅力 

【1】唯一無二の陶器

東洋の古典的な陶磁器に西洋のアール・ヌーヴォー様式を融合した新たなる陶芸の世界を開拓

波山を代表するのは
「葆光彩磁」のマットな質感
繊細にして優雅
静ひつにして高貴
現代人のセンスで見ても新しい
性別・年齢を超越したような感性
晩年の作品でも若々しい生命力

葆光彩磁和合文様花瓶  1910年代後半
青海波の文様に「比翼の鳥」「連理の竹」「合歓の蓮」を描き、窓と窓の間に「比翼」「連理」「合歓」の文字を入れている
半透明の光沢をおさえた釉が文様を柔らかく透けて見せる




【2】出光佐三は波山作品の大コレクター

出光興産創業者 出光佐三
(佐三とはあの「海賊と呼ばれた男」)
大正13年佐三は学生時代の先輩の家を訪ねる。たまたまその家にあった波山の作品を見て佐三はいたく感銘を受けた。
これをきっかけに後に先輩の紹介で交流が始まり、
“作家と顧客”の関係を越えた友人になった

数々の波山作品を収集(出光美術館では270件以上所蔵)
そういった経緯で
出光コレクションの中でも波山は特に重要な作家となっている




【3】ストイック①気に入らない作品は容赦なく割る

天目茶碗銘 命乞い  出光美術館
波山
は意にそぐわない出来栄えの作品は容赦なく割って破棄
出光佐三が半ば強奪してなんとか救出したこの作品
その名も「命乞い」 納得
この作品がこの世に無かったかもしれないなんて…
間近で見たけれど、綺麗さでため息しか出なかった


【4】ストイック②生活が苦しくても妥協しない

陶片 板谷波山記念館蔵
かけらからでも美しさが垣間見られる

波山は東京高等工業学校 (現、 東京工業大学) 窯業科嘱託の
高い俸給を捨て、陶芸家の道を選んだ
生活は苦しく、初の窯入れにも燃やす薪が足りなくなり、
家屋の木材までも使用した。60歳頃まではほとんど借金生活
自ら「板屋破産」と称していた。
それでも納得の行かない作品はすべて割った
「上絵でキズを隠して売れば」と言う妻を買い物に行かせ、
その間に割ってしまった

苦しい生活のエピソードはこちら




【5】ストイック③作品は1年間にわずか20点

葆光彩磁葵模様鉢 大正前期 個人蔵  
代名詞の「葆光彩磁(ほこうさいじ)」は、器を成形して意匠を彫刻し、多様な顔料で彩色して素焼きする。仕上げに不透明な「葆光釉(ゆう)」をかけて焼くと、釉薬に含まれた細かな結晶が光を反射し、器の表面にベールをかけたような淡い輝きを生む。華麗な意匠を支えるデッサン力、釉薬の効果を計算した彫り方など、波山の技術と感性でこそ可能なわざ

約60年に渡る作陶人生において 
1年間に20点ほどしか作品を世に出さず

彼が元気で長生き(91歳)だったからこそ、
たくさんの作品を見ることができる奇跡


【6】アーティストとしての陶芸家

人間国宝辞退 弟子は取らず唯一無二の存在 

人間国宝辞退・弟子をとらず
88 歳のとき 
重要無形文化財保持者 (人間国宝) の推挙を辞退
理由としては「人間国宝は技術の伝承が目的」であるため、独自のアーティストを自認している波山は技術の伝承を望まず。最後まで弟子も取らなかった

日本最初期 陶芸家アーティスト
「アーティストとして」の陶芸家としては
日本最初期の存在

御前制作の経験・皇室に納品
皇后陛下に招かれ、御前制作した
作品は皇室にも納められるなど、当時の日本を代表する陶芸家として活躍

文化勲章受章 
昭和28年に、陶芸家として初めて文化勲章を受章


彩磁金魚文花瓶 1911(明治44)年頃
こんなにモダンなデザイン
それでいて上品さもある奇跡のバランス
この浴衣柄あったらとても可愛い
彩磁蕗葉文大花瓶 1911年(明治44)頃
波山作品で最も大作として知られる
高さ77・5㎝
青々としてみずみずしいフキの葉は、
楽譜の音符のように上下して配置されている
葆光彩磁紫陽花文花瓶 
開運何でも鑑定団の2018年の年間高額一位となった作品




【7】チャーミングな人柄

茶目っ気たっぷりで冗談が好き
草花や動物が好きでいつも犬や猫を飼っていた

四つ葉のクローバーの有りかを覚えておき、
女性が訪ねてくると偶然のようにクローバーを差し出した

五男一女の子供にみんな花の名前をつけた
柿香合
チャーミングな波山がチャーミングな作品を!
こういった可愛いと感じる作品がたくさんある
作品を慈しんでいる様が神々しい




【8】ギフトの達人  

作品の優しさに背景あり】
苦しい時代を支えてくれた郷里(下館)の人への思い
弱い立場にいる人たちを励まし続ける姿勢
分け隔てない人々への優しさと温かさ 

「鳩杖 (はとづえ)」 
握りに鳩の飾りのある老人用の杖
       左は鳩杖を受け取った方の集合写真      
波山は 61歳から19 年間にわたり故郷下館に暮らす
80歳以上の高齢者全員、約260人に
握りに鳩の飾りのある老人用の杖「鳩杖 (はとづえ)」を贈った
波山は早くに両親と死別しその両親への思いから、
長上に対する敬愛と感謝の念を込めて製作
※このエピソード詳細はこちら
観音聖像
波山が日中戦争や太平洋戦争の戦没者の遺族に贈った観音像
波山は読経をしたうえで1体1体に祈りをささげて仕上げた
また波山自身で遺族を探しすべての人に届けようと
名簿を作り286体を贈った
像を納めた箱には、
波山が作ったものだと証明する朱印と署名があり、
戦争で大黒柱を失った遺族がお金に困った場合には、
できるだけ高い価格で売却して
生活費にあてられるようにと価値を保証
蓋には故人の名前が記され,
波山 は遺族一人ひとりに慰めの言葉をかけて手渡した
孫への贈り物
【上】孫に贈った手描きカルタ。使用済ハガキが使われている
中には「ヤスモノカイノゼニウシナイ」笑

【下左】孫に贈った手書き絵本

【下右】孫の啓造(菊男の長男)にあてたハガキ
「ジイチヤンノオウチニ ニホンイヌガキマシタ
アイヌイヌデ ナハポチトイヒマス
アタタカナヒニ ミニオイデ」
アタタカナヒニミニオイデ←このフレーズのホッコリ感
可愛すぎて悶絶である じいちゃーーん!!

こちらから画像お借りしました


成功しても資産は残さず奨学金設立
公益財団法人波山先生記念会は
波山が出資し貧しくて進学できない子どもたちの育成などを目的として、昭和38年(1963)10月10日に発足
病床で財団病設立の知らせを聞いた波山は、
その直後安心したようにこの世を去った。
この資金を基に、昭和40年(1965)から毎年、
大学へ進学する学生数名に奨学金を支給しその総数は146名

出光美術館「生誕150年 板谷波山展」で
波山の陶芸家以外の側面を知り、
人への愛情深い生き方にひじょうに感銘を受けた
こういった精神性だからこその
美しい世界なのだと納得

 


【9】最後の作品 変わらぬ愛らしさ瑞々しさ

椿文茶碗 1963年(昭和38)
波山91歳生涯最後の作 
ほんのりとした愛らしい茶碗に、 
これから咲こうとする小さな蕾も加えられ、
最晩年まで瑞々(みずみず)しい感性を決して失うことがなかった





◼️最後に

【まだまだありそう共通点
まとめる過程でも共通点を知ることに。二人とも子供に自分の思い入れのある山の名前花の名前をつけていた。調べてみたところ、同時代を生きた二人ではあったが交流は無さそうである。もし二人に交流があったら、「同じ波長を持つものどうし」相通じるものがあったのではと想像すると楽しい


 
あらためて明治初期生まれという驚き】
和洋折衷の最高峰、再現が難しい技術、唯一無二の個性
この優しい美しい世界観を明治初期生まれの男性が作り出したのだ。生まれる少し前は江戸時代!江戸風味まるでなし!明治初期に突然変異で彗星のごとく爆誕した二人だと思っている。まるで違う時代・世界からワープしてきたかのような存在

どちらかというと現代の感覚のような気もする
のに現代にもいない
後にも先にもこの世界観はいない


【これから初めて作品を見る方へ】
単独の展覧会にぜひ
他の芸術家の作品の中の一つということでなく、
出来るだけ「吉田博」「板谷波山」単独の展覧会、もしくはある程度まとまった量を展示しているところで鑑賞されることをおすすめしたい。魅力が何倍増しにもなる。優しい風合いの作品が多いので他の強いインパクトの作品と並ぶと負けてしまう(埋もれる)場合もあり、スルーしてはもったいない!

現物で色と質感を
二人の作品は、やはり現物を見て色と質感を味わって欲しい。残念ながらあの感動の色合いは画像では伝わりきれない

まだまだ魅力が伝えきれていない
良い作品があり過ぎる二人
別途またまとめてみたいと思う


◼️結局ピンクと水色が好き

 パウル・クレー《House on the Water》 1930年


◼️参考

吉田博


板谷波山

    ※2018年の高額一位は、なんと波山だった




新版画について

吉田博がカテゴライズされている新版画の解説 




(余談)シティーポップのイラスト

完全に余談であるが、ふとこの感じ版画感あるかもと思って見ていたら一覧の中に、Yoshida Hiroshi 混ざっている。通じるものあり …?!w


おわり

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