子どもの頃、自分の見てる世界は人と違う気がしてた。
認識と戦略と付和雷同
こんにちは、こんばんは、おはようございます。
秋に入り、少し感傷的な気分になると、ちょっとしたことで一喜一憂してしまうことがあります。
歳を重ねると、自分がどんどんセンシティブになっている気がしますが、それと同時に、どんどん性格が丸くなっているようです。
そう考えると、ひと回り以上歳が違う恩師が、いつまでも尖っていることが想起され、改めて、良くも悪くもスゲーなーって感じたりして。
まあ、意見が合わないとか、感じ方が違うなんてことは、よくよく考えれば当たり前のことなんで、相手の考えを受け入れるって言うより、とりあえず、受け止めるって感じになっていくんでしょうね。
簡単に言うと、空気が読めるようになるとかですかね。
自分の主張を出さないように様子を伺うって感じだったら戦略家な感じがしますが、考えなしで同調していると迎合しているって感じですかね。
それもこれも、いろいろな経験や学習のもとに備わるものなんでしょう。
業界と環世界
そう考えると、子どもの頃は、そんなこと、なーんにも気にしてなかったのか。
いや、自分が思うに知識は積み重なっていないにしても、子どもなりに、メチャクチャ気を使って考えて、考えて、考え抜いていた気がします。
ただ、自分の捉える世界に対して、解釈するには、経験している時空が狭いからなんでしょうか、人の意見を受け入れる度量も狭く、配慮も足りなかったんでしょうね。
まずもって、「なんで、わからんかなー。なんか周りの人と考えが合わないんだよねー。自分が見ている世界って本当は違うんじゃないかな。」なんて偉そうによく考えていましたよ。
皆さんも「実は全部夢なんじゃないか」とか「自分が見ている色は、他の人には全く違って見えてるんじゃないか」とか思いませんでした。
そんな夢うつつな疑問に対する悩みの数々は、歳を重ねるうちに現象学だとか認識だとか存在だとか脳科学だとかスピリチュアルだとか・・・、そんなこと言ったら変に思われたら嫌だなとか諸々の理由で気にしなくなっていきます。
しかしながら、対人援助の仕事をしていると、否が応でもいろんな疑問に出くわして「そう言えば・・・」なんて感じで、時々、夢うつつな疑問を思い出します。
では、自分の見ている世界と人が見ている世界は違うのか?それとも同じなのか?
業界って聞いたことあります?
「○○ちゃーん、ゆうべは、チャンネーとザギンでシースーベーターよー!」みたいなこと言ってるギョウカイではありません。
ちなみに、こういう逆さ言葉は、倒語(とうご)と言うそうです。
では、何と読むのかってことで、業界(ごうかい)と読みます。
仏教用語で、人の行いや言葉、思いを業(ごう)と言います。
人は、いろいろな経験や学び、育ってきた環境、文化により物の見方、捉え方、考え方が変わるから業(ごう)が違うってことのようなんですが、人の行いが違う故、人それぞれ同じ世界にいるようで違う世界を生きていて、その集まりが業界(ごうかい)となります。
だから、人は、たとえ家族だとしても理解できない。感じていること、考えていることが同じであることはあり得ないということです。
みんな、同じ世界に住んでいるのに、一人ひとり、別々の世界に生きているってことかー。
なんてことを考えていたら会社で上司から、とある本を紹介されました。
その本は「暇と退屈の倫理学」
そして、その本にはこう書いてありました。
「環社会」
ドイツの生物学者であるユクスキュルが1900年代初頭に提唱した「それぞれの生き物の知覚できる世界と身体が環境に働きかける作用の世界で構成されており、生き物にとってその世界がすべてである」と言う概念です。
それをトカゲやダニが見たり、感じる世界を通して解説されているんですが、人の場合、知覚や環境の作用だけでなく、教育や経験によっても世界が変化するということです。
みんな、同じ世界に住んでいるのに、一人ひとり、別々の世界に生きているってことかー。
ということで、結果、子どもの頃からの疑問を説明してくれている人がいました。
ちなみに対人援助職は、人の考えはそれぞれ違うから、わかったつもりにならないでってことにもつながりますね。
それも、東洋では、紀元前5世紀、西洋では、1900年代初頭からわかっていたことなんて。。。
まさに無知の知。
これからも知識を得ることを楽しまないとですね。
ほんじゃ、また。