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絶望を感じたら反対側の見方も少しだけ、感じてみる

私は最近、絶望を感じた。そんなときはどっちかっていうと、泣き腫らしてどっぷり浸かっちゃうタイプ。「もうどうしたらいいかわかんないよ~」とか言いながら、また涙が…みたいな。まー、そんな自分の気持ちでフルな状態のときは他の見方なんて出来ない。

たいてい落ち込んだり、悩んだりして涙が出るのは(絶望するのは)夜だ。朝のいちばん気持ちのいい時間帯に朝日を浴びながら絶望している人を私はまだ見たことない。

今は朝。やる気なんて起きないし、ダルくて身体も動かない。気持ちとは裏腹に、太陽の光はなんて暖かいんだろう。カーテンを開けて…すすすっと窓の近くに行ってみる。窓を開けて風をそよがせてみる。…あー気持ちいいな。なんだかちょっとだけ、快な気持ちが出てくる。

こんなことで、昨日の悩みや絶望が無くなる訳ではないけど、昨日のこと、ちょっとだけ冷静に考えられる気がする。

私の場合は自分の内面に自信がなくて、大体悩む事があると、自分の人間性が悪いから、それは幼少期に厳しく育てられたから、自己肯定感が低いせいだ。なんて親のせいにして、泣き腫らし、ネットをみると「毒親」なんてワードを目にしたり。でも、夜のいちばん絶望感があるときでも、うちの親、確かに厳しかったけれど、毒親っていうほどではないなとは思う。

人は悩んだりして辛いとき、誰かのせいにしたいんだと思う。誰かというのは、自分も含む。自分なりに原因をみつけることで、安心?するし、自分が守られるから。けど、誰かのせいに出来ない人、自分が悪いと思う人は抜け出せないから辛いよね。私もそう。そんなひとも心の何処かで誰かを恨んで(怒って?悲しんで?)いるのかも。それでいいと思うけどね。

朝日を浴びながら、昨日のこと、ちょっとだけ考えてみる。今は自分の気持ちだけでフルにはなっていない。自分の境遇は絶望的かもしれない。事実かもしれない。こんなことになったのは何でだ。あの人のせいかもしれない。私自身のせいかもしれない。でも、少しだけ考えてみて。今の自分は、出来事の悪い方ばかりみていないか。出来事自体に、悪い、良い、という意味付けをしているのは、自分のモノの見方次第(価値観)だということにきづいて。

私の場合は、父親が難病になってしまい、介護が必要になった。悲観的になるし、家族との衝突も多くなった。絶望感を感じるけど、一方で、ああ、介護をしている人はこんなに大変なんだ。病院はもうちょっとこうしてほしいな、とか患者家族の気持ちがわかって勉強になった。そして、父の病をきっかけに、家族の心の距離が近くなったし、今まで父とは二人で出掛けた事もなかったし、何を考えている人かもよく分からなかった。けれど、今では運動場に二人でリハビリに行ったり、手を繋いで歩行介助したり。恥ずかしくて、くすぐったい気持ちもあるけど、そんな風になったのは、父の病のお陰だ。

捉え方を多角的な視点で考える意味は、自分の遭遇した出来事に対して少しでも衝撃を少なくする、バランスをとるためだと思う。

出来事に対して陰の部分は目立ってしまうけれど、ちょっとだけ陽の側を考えてみたら、乗り越えやすくなるかも。あ、でもまずは、午前中に起きて、朝日を浴びてそよ風を感じたあとに考えるのがオススメかな。

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